12.18.2009

第48回


叙述態研+大忘年会
日時:12月18日17:30〜
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター,カルチャー棟美術室
著者セッション:高木信×森田團
『「死の美学化」に抗する—『平家物語』の語り方』(青弓社、2009年4月)

11.06.2009

第47回


日時:11月6日(金)17:00〜
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター, センター棟小研修室
発表者:逆井聡人
タイトル:石川淳「焼跡のイエス」論—闇市の政治的位相と〈少年〉

報告要旨:

本報告は、石川淳の「焼跡のイエス」(『新潮』、昭和二十一年十月号)における〈少年=イエス/クリスト〉とはどのような存在かという解釈上の問題を中心に作品を分析する。「焼跡のイエス」は戦後石川文学における代表作品の一つであり、多くの批評家研究者がこの作品について言及してきた。しかし、先行する研究は〈少年〉の解釈に関して様々な見解を提示しているものの、物語の舞台となる「闇市」に関して「極めて戦後的で混沌とした空間」という一様の把握に留まっており、その政治的・歴史的位相を詳細に検討した上で〈少年〉を捉えるという分析が十分になされていない。

本分析では「闇市」が本当に「戦後的」であり「混沌」とした空間であったか、という検討を出発点としてテクストを読んでいく。また同時代の世相を扱った他の作家による作品と比較し、最終的に敗戦直後の石川淳の諸作品との関係性の中で〈少年〉の意味と「焼跡のイエス」という作品自体の歴史的位置を検討していく。

なお、この報告は報告者が現在執筆中の修士論文を基にしている。




10.02.2009

第46回


日時:10月2日(金)17:00〜
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター棟407
発表者:大澤総
「日本浪曼派のイロニー概念—メディア論的視点を媒介に」

9.04.2009

第45回


日時:9月4日(金)16:30〜
場所:立正大学大崎キャンパス4号館1階ゼミ室F
発表者:鵜戸聡
「ロートレアモンを読むカテブ・ヤシン——(悪)徳の詩学から生命の力へ」
発表者:田口麻奈
「「荒地」1954年の陰翳」


【発表要旨】
鵜戸聡「ロートレアモンを読むカテブ・ヤシン――(悪)徳の詩学から生命の力へ」
 アルジェリアの仏語詩人・劇作家・小説家であるカテブ・ヤシン(Kateb Yacine,
1929-1989)は、現代マグレブにおける最大の作家である。本発表は、そのテクストのイメージ分析を通して、彼の文学に於けるフランス語のはたらきについて論じる試みの一つである。植民者の言語としてのフランス語使用の問題(つまりポストコロニアル的観点から)はすでに論じたことがあるため
、ここではフランス文学との関わり、とくにロートレアモン伯爵ことイジドール・デュカスの『マルドロールの歌』との関連に特化して検討することにする

 しかし、作家間の影響関係をさぐる源泉研究をおこなうわけではない。カテブ・ヤシンが生涯にわたってロートレアモンを愛読した、という伝記的接点を口実に、そして切り口にして、ロートレアモンとカテブを併せ読み、もっぱら後者のエクリチュールの特徴を似て非なる前者のそれとの対比によって明らかにしようとするものである。
 怪異や悪徳をうたうロートレアモン的詩学が、カテブに於いていかように美徳に反転し、再生の「力=徳」としてエクリチュールに遍満するのか、それが議論の中心になるだろう。フランス語表現の作家であることは、(翻訳文学も含め)仏文学の蓄積というフランスの「文」の伝統に外部から参入してこれに寄り添い、あるいは破壊を加えつつ書くということにほかならない。そのとき、ことばは単なる道具であることを超えて、世界のマチエールそのものに転化するのだ。

田口麻奈「「荒地」1954年の陰翳」
1953年初から1955年にかけて、『荒地』の鮎川信夫は所謂『死の灰詩集』論争を展開する。その状況下で発表された詩篇「兵士の歌」が、詩に関する鮎川の原理論を当時の主流に向けて批評的に提示したもの
であることは、以前この会で(第21回、2006年6月)発表させて頂いた。1954年はその論争が昂進してゆくさなかであり、鮎川詩論の骨格を形作る重要な評論が書かれている。だが一方で、鮎川の詩において「特
殊なメルヘン調」の詩と評される「小さいマリの歌」や「可愛いいペニイ」などが発表されたのも同年のことである。初出誌である『荒地詩集』1954年版には、この二篇のほか、従軍体験に取材した病院船詩群や戦前の
室内詩篇が再録されており、作風において変化に富む詩群が並べられている点が興味深い。今回の発表では、前述の二篇の考察を中心に、54年版をひとつの指標として「荒地」と鮎川における1954年を考えてみたい。
詩における「私小説性」をテーマとした黒田三郎の評論など(同54年版)も、参照項に入れる予定である。

7.03.2009

第44回


日時:7月3日(金)17:00〜
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター 小研修室
発表者:村上陽子
大城立裕「カクテル・パーティー」における法と被傷性の問題」
コメンテーター:島村幸一

【発表要旨】
「カクテル・パーティー」は、米軍支配下にあった1963年の沖縄を舞台とする作品である。沖縄人の主人公は、米軍人、日本人新聞記者、中国人弁護士らとともに中国語研究のグループを結成している。しかし、米兵による主人公の娘へのレイプ、アメリカ人の幼児を無断で連れ帰った沖縄人メイドの告訴という二つの事件が起こったことをきっかけに、占領者と被占領者の間の「国際親善」の欺瞞が告発されていく。
本稿では、岡本恵徳、マイク・モラスキーの論考を踏まえた上で、「カクテル・パーティー」における法と被傷性についての考察を深めることを試みる。岡本は作品の構造について、モラスキーはジェンダーと被害者性についての先駆的な論を展開している。
岡本は、沖縄人メイドに対する告訴が主人公の告発の直接の動機となったことを重視している。主人公の「共同体的な関係性の支配する社会に生きる人間の感性」が通用しない米軍支配という現実がメイドの告訴によって突きつけられたとき、主人公は親善の欺瞞を告発するに至るという作品の構造を明らかにした

しかし、岡本論においてはなぜ主人公が告訴という手段にこだわるのかに言及されていない。占領下沖縄の法が不平等なものであり、正義を体現しないことを自覚しながらもなお、主人公は告訴、裁判に執着する。裁判の場に実際に引き出されるのは、ネイティヴの女性たちであることを踏まえ、法とそれに執着する主人公の欲望について考察する必要があると思われる。
マイク・モラスキーは、「カクテル・パーティー」において加害者が占領軍の男性、本来の被害者がネイティヴの女性としてあらわれることを指摘した。その上で、被害者性が「女性」ないし「ネイティヴ」というカテゴリーの交差を通じて規定されていると論じ、ネイティヴの男性は被害者性が免罪を約束するものであるがゆえに、被害者性という「女性」領域に同一化するのだとする
。また、モラスキーは幼児の行方不明事件に触れて、占領者の「傷つきやすさ」に言及してもいる 。
しかし、なぜ男性の被害者という存在が徹底的に不可視化されるのかについては明らかになっていない。そのため、モラスキー論においては男性の被傷性が不可視化されてしまうという問題がある。
「カクテル・パーティー」において、ネイティヴの女性は純粋な「被害者」性に留まっているわけではない。娘もメイドも、ともに裁判の被告であり、占領者の男性への加害性を有している。占領者の男性が告訴という手段に踏み切ったことは、自らの身体、あるいは自らの息子の身体が脅かされたという認識が彼らの胸に萌したためである。
レイプされた娘が、暴力によってレイプに抵抗するとき、占領者の男性の被傷性が露呈される。当然のことながら、男性の身体もレイプやレイプ的な暴力と無縁ではない。しかし、「合衆国軍隊要員である男性」はレイプの対象として決して名指されない。占領者の男性は犯されざるべきものとして確立している。だがそれは、占領者の男性が被傷性を持たないということと同義ではない。
男性であるために犯されてはならない領域が法によって明確に示されていること、「本来の被害者」として名指されないことによって被傷性が隠蔽されていることを指摘する。それによって、娘の暴力が自らの身体に行使されたレイプに対する抵抗であったと同時に、不可視化されていた男性の被傷性をさらけだすものであったことを示していきたい。

6.05.2009

第43回


日時:6月5日(金)17:00〜
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター棟302
発表者:内田力
「網野善彦『無縁・公界・楽』における機能への注目」
コメンテーター:上村忠男

【発表要旨】
網野善彦は1953年夏に左翼政治運動から離脱したことを「戦後歴史学からおちこぼれた」と表現していた。実際、1953年以降の網野は同時代の歴史学がもつ暗黙の価値判断を共有しないで歴史研究をしようとしていた。本発表が示すのは、『無縁・公界・楽』(1978年出版)がその必要から歴史的事象の機能に注目して歴史叙述をおこなったということである。本書で網野は、事象それ自体よりも、事象がもつ「(世俗からの)縁切り」という機能に注目して叙述した。この方法により、たとえば「無縁」のように史料上は否定的文脈で現れる語を肯定的に評価してみせた。しかし、そのような叙述法が理解されなかったことで、議論のかみ合わない論争が歴史学界におきたのである。


5.01.2009

第42回


日時:5月1日(金)17:00〜
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟514
発表者:村上克尚
「言葉を奪われた動物——大江健三郎「飼育」をめぐる江藤・三島の批評の問題点」

3.17.2009

第41回


ワークショップ「乳房はだれのものか」
木村朗子×田崎英明×生方智子
日程:2009年3月17日(火)17:00-19:00
場所:東京大学駒場キャンパス101号館2階研修室
共催:東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育センター」(The
University of Tokyo Center for
Philosophy, UTCP), 叙述態研究会
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2009/03/utcp_17/