7.03.2009

第44回


日時:7月3日(金)17:00〜
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター 小研修室
発表者:村上陽子
大城立裕「カクテル・パーティー」における法と被傷性の問題」
コメンテーター:島村幸一

【発表要旨】
「カクテル・パーティー」は、米軍支配下にあった1963年の沖縄を舞台とする作品である。沖縄人の主人公は、米軍人、日本人新聞記者、中国人弁護士らとともに中国語研究のグループを結成している。しかし、米兵による主人公の娘へのレイプ、アメリカ人の幼児を無断で連れ帰った沖縄人メイドの告訴という二つの事件が起こったことをきっかけに、占領者と被占領者の間の「国際親善」の欺瞞が告発されていく。
本稿では、岡本恵徳、マイク・モラスキーの論考を踏まえた上で、「カクテル・パーティー」における法と被傷性についての考察を深めることを試みる。岡本は作品の構造について、モラスキーはジェンダーと被害者性についての先駆的な論を展開している。
岡本は、沖縄人メイドに対する告訴が主人公の告発の直接の動機となったことを重視している。主人公の「共同体的な関係性の支配する社会に生きる人間の感性」が通用しない米軍支配という現実がメイドの告訴によって突きつけられたとき、主人公は親善の欺瞞を告発するに至るという作品の構造を明らかにした

しかし、岡本論においてはなぜ主人公が告訴という手段にこだわるのかに言及されていない。占領下沖縄の法が不平等なものであり、正義を体現しないことを自覚しながらもなお、主人公は告訴、裁判に執着する。裁判の場に実際に引き出されるのは、ネイティヴの女性たちであることを踏まえ、法とそれに執着する主人公の欲望について考察する必要があると思われる。
マイク・モラスキーは、「カクテル・パーティー」において加害者が占領軍の男性、本来の被害者がネイティヴの女性としてあらわれることを指摘した。その上で、被害者性が「女性」ないし「ネイティヴ」というカテゴリーの交差を通じて規定されていると論じ、ネイティヴの男性は被害者性が免罪を約束するものであるがゆえに、被害者性という「女性」領域に同一化するのだとする
。また、モラスキーは幼児の行方不明事件に触れて、占領者の「傷つきやすさ」に言及してもいる 。
しかし、なぜ男性の被害者という存在が徹底的に不可視化されるのかについては明らかになっていない。そのため、モラスキー論においては男性の被傷性が不可視化されてしまうという問題がある。
「カクテル・パーティー」において、ネイティヴの女性は純粋な「被害者」性に留まっているわけではない。娘もメイドも、ともに裁判の被告であり、占領者の男性への加害性を有している。占領者の男性が告訴という手段に踏み切ったことは、自らの身体、あるいは自らの息子の身体が脅かされたという認識が彼らの胸に萌したためである。
レイプされた娘が、暴力によってレイプに抵抗するとき、占領者の男性の被傷性が露呈される。当然のことながら、男性の身体もレイプやレイプ的な暴力と無縁ではない。しかし、「合衆国軍隊要員である男性」はレイプの対象として決して名指されない。占領者の男性は犯されざるべきものとして確立している。だがそれは、占領者の男性が被傷性を持たないということと同義ではない。
男性であるために犯されてはならない領域が法によって明確に示されていること、「本来の被害者」として名指されないことによって被傷性が隠蔽されていることを指摘する。それによって、娘の暴力が自らの身体に行使されたレイプに対する抵抗であったと同時に、不可視化されていた男性の被傷性をさらけだすものであったことを示していきたい。