12.02.2011

第62回


日時:12月2日(金)17時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟415号室
【個人発表】
村上克尚「「自覚」の特権性を問う——武田泰淳「審判」における小説の可能性」
【著者セッション】
鳥羽耕史『運動体・安部公房』(一葉社、2007年)
書 評者:逆井総人、司会:村上克尚



【企画意図】(村上克尚)
今年度のきむすぽは「2000年代の文学研究の再検討」というテーマを設定しています。
10月の著者セッションでは、小平麻衣子さんをお招きして、
『女が女を演じる 文学・欲望・消費』の再検討を行ないました。
その際、私のほうで、6月にお招きした荒井裕樹さんの問題提起を受けるかたちで、
「文学研究」の想定する「文学」概念をどのように拡張していけるか、
という論点をはじめに設定してみました。
これに関して、書評者の木村政樹さんから、
「文学」の概念を超歴史的に(あるいは歴史遡行的に)用いるものではないか、という疑念が提出されました。
小平さんからもこれに応じるかたちで、
「文学」がいかに周縁的なものを収奪しつつ自己を再活性化させてきたかということを思えば、
今すべきことは研究者の想定する何らかの「文学」概念を過去に投影することではなく、
「文学ではない」として排除されてきた様々な文献を丹念に掘り起こしていくことではないか、
というご趣旨の応答をして頂きました。
この木村さんと小平さんの対話からは、解釈への禁欲さによって研究の倫理を保証しようとする姿勢が、
一つの重要な方向として示されたように感じました。

この問題を継続して考察していく上で、
鳥羽耕史さんの『運動体・安部公房』はとても重要な著作だと感じています。
というのも、本著は、「安部公房」という作家の固有名を冠しながらも、
「安部公房は運動体の中でこそ最大の力を発揮した作家である。一九五〇年代という運動の季節は、彼の青春であると同時に、生涯で最高の輝きを放った時代なのだ。そしてその運動こそ、安部の全活動の中で、今日最も参照を必要とされる部分であろう」(「エピローグ」)という観点から、
作家のテクストを、徹底して同時代のネットワークの中で捉え直そうとした試みであるからです。
特に、このネットワークに関する持続的な調査は、
『1950年代 「記録」の時代』(河出ブックス、2010年)という素晴らしいご著書として結実しています。
それでも、あえて今回2007年に出版された本著を取り上げたいと考えたのは、
鳥羽さんにおいて、テクスト研究と言説研究が現在どのようなバランスを持って存在しているのかを
伺ってみたいという個人的な関心があったからです。
『1950年代』の「あとがき」における膨大な謝辞を見れば明らかなように、
鳥羽さんのご研究自体もまた、学際的(領域横断的)なネットワークの中で生み出されています。
その作業において、鳥羽さんにおける「文学研究者」としてのアイデンティティはどのようになっているのか。
あるいは、そもそもそのようなアイデンティティにはもはや固執する必要はないのか。
以上が、私が本著をぜひ取り上げたいと考えた理由になります。
ただし、研究会における議論がこのようなテーマのみに収斂する必要はなく、
特に「3・11」以降を考える上で、鳥羽さんのお仕事の重要性がますます大きくなっているのは
疑い得ない事実ですので、皆さまからご自由に議論を喚起して頂ければ幸いです。

【企画内容】
今回は、本著についての報告を、東京大学言語情報科学専攻の逆井聡人さんにお願いしています。
逆井さんは、敗戦直後の都市表象(特に闇市)にご関心を持って研究をされています。
今年の7月には名古屋の日本文学協会の大会で、
「始まらない物語――織田作之助「世相」と太宰治「トカトントン」」のタイトルでご発表をされました。
また、8月には『言語態』11号で、
「田村泰次郎「肉体の門」論――「新生」の物語と残余としての身体」をご発表されています。
小説テクストを外部の環境と接続しながら論じていくという点において、
お二人のご研究の方法には相似する部分があるのではないかと感じています。
まずは逆井さんのご報告と鳥羽さんからの応答を入り口とし、その後に教室全体で議論ができれば
と考えております。

 
 
 
 
 
 

11.04.2011

第61回


日時:11月4日(金)17時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟308号室
【個人発表】
小松原孝文「「哀つぽい橋」の哲学——保田與重郎「日本の橋」」
【著者セッション】
兵藤裕己『物語と王権』(岩波現代文庫、2010年)
書評者:茂木謙之介

10.07.2011

第60回


日時:10月7日(金)17時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟503号室
【個人発表】
田口麻奈「鮎川信夫〈病院船日誌〉の方法」
【著者セッション】
小平麻衣子『女が女を 演じる ;文学・欲望・消費』(新曜社、2008年)
書評者:木村政樹、司会:村上克尚

【企画意図】(村上克尚)
今年度のきむすぽは「2000年代の日本の文学研究」というテーマを設定しています。
6月の著者セッションでは、田口麻奈さんがコーディネーターとして、
荒井裕樹さんの『障害と文学』(現代書館、2011年)についての議論が行なわれました。
多田蔵人さん、生方智子さんのそれぞれに鋭い問題提起もあり、
藤井先生が後日ご感想を送ってくださいましたように、とても白熱した会になりました。
私の受け止めた限りでは、荒井さんが最も強調されていらっしゃったのは、
「文学研究」の想定する「文学」概念をどのように拡張していけるか、という点だったと思います。
この問題を継続して考えていくうえで、
小平麻衣子さんの『女が女を演じる』は、重要な示唆を与えてくれる著作だと感じております。

「あとがき」にもありますように、小平さんのご研究の重要な基礎を形成した場所として、
『メディア・表象・イデオロギー』(1997年)、『ディスクールの帝国』(2000年)を出版して、
日本の近代文学研究にカルチュラル・スタディーズを導入した明治三〇年代研究会があります。
実際、本著は「すでに文学史に登録されている作家や作品を、再評価または批判してみても、
なぜ多くの女性が長い時間文壇から排除されてきたのかを説明できない」という観点から、
「演劇、広告、医学的言説」にまで幅広く、透徹した分析を行なっており、
まさにカルチュラル・スタディーズのお手本と言って良いようなご著書であると思います。

さらに、私に重要に思えるのは(そして、この点も荒井さんのご関心と重なると思うのですが)、
本著が、ジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティの概念を導入することで、
広義における「文学」の可能性を堅持しているように思えるということです。
つまり、自分に不当な抑圧を与える言説を、他ならないその言説を横領し、作り変える可能性、
そしてそれを多くの読者、観衆たちが分有し、各々のフィールドで活かしていく可能性、
この「文学」が持つ最も根本的な可能性についての信頼が、本著の中心にあるように思えます。
荒井さんのご著書もまた、脳性まひを患った方々が「文学」という理念を共有することで、
新しいコミュニティ、ネットワークを作り出していった歴史を共感をもって描き出していたと記憶しています。

以上のような物言いは、非常に素朴な文学主義のように響いてしまうかもしれませんが、
ただ、日本のカルチュラル・スタディーズが、おそらくはその紹介者の意図に逆らって、
全てを「記録文書」として平準化して捉えることで、社会学的方法に限りなく接近し、
その結果、文学研究のみならず、文学そのものの基盤を危うくしてしまう傾向と併走してしまう、
といった(少なくとも私にはそのように映っている)現在の状況において、
研究の強度を保つためにも、「文学」への意識ということは重要な契機であるように思えます。
本著では、「はじめに」において、次のような宣言がなされています。

 書く、あるいは演じるという日常的には不自然な行為を犯して、収まらない何かを意志化しようとした彼女たち。
 その彼女たちとの対話は、彼女たちから何かを汲み取り、研究主体自らが置かれた歴史的状況をも批判的に打  開しようとする強い願望から望まれるものでもある。〔中略〕だが、だとすれば、未紹介の資料を取り上げることを  もって、新たな事実の発掘や文学史の構築と呼ぶことが単純に過ぎることも確かだろう。従来の文学史が排除し てきたものに目を向けるほど、それらは文学の完成度から外れてみえるゆえに、飾りのない事実の証言のように もみえるのだが、そこには研究主体による創造的な読みが持ち越されてもいる。それを実証というとき、創造的な 読みは自由すぎる読みとなり、そこに生じるある種の無節操さに、どのような倫理的歯止めを設けるのかという課 題を残す。(22頁)

本著のこの宣言は、文学、そして文学研究に心を惹かれてしまう人間の出発点には、
自分があたかも歴史のメタレヴェルに立ったかのような全ての発話に対する違和感があることを、
改めて教えてくれているように思えます。
その意味で、テクスト論からカルチュラル・スタディーズへ、という粗雑な図式ではなく、
それぞれの研究が、どのようなテクスト論であり、どのようなカルチュラル・スタディーズであったのか、
ということを判断するための重要な契機を、本著の再読から得ることができるのではと思っております。

【企画内容】
今回は、本著についての報告を、東京大学言語情報科学専攻の木村政樹さんにお願いしています。
木村さんは、有島武郎を中心に大正時代の文学の状況をご研究されており、
きむすぽでは昨年の8月に「有島武郎の藝術家戦略」というテーマでご発表をされ、
その成果を今年の6月に「知識階級と藝術家 有島武郎「宣言一つ」論争」として論文にされています。
本著は奇しくも有島武郎の『或る女』についての言及から始まっており、
同時代をご研究されている木村さんからは、様々な論点を提出して頂けるのではと思います。
まずは木村さんと小平さんの応答を入り口とし、その後に教室全体で議論ができればと考えております。



7.01.2011

第59回


7月1日(金)17:00から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟502
【個人発表】
岩川大祐「騙り」が「語り」になるとき—大地震と多和田葉子をつないで」
【ワークショップ】「世紀転換期の文学と都市のイメージ」
発表者:パウ・ピタルク・フェルナンデス、加勢俊雄、坪野圭介
司会:逆井聡人

6.03.2011

第58回


6月3日(金)17:30から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター棟510
【著者セ ッション】
荒井裕樹『障害と文学』(現代書館、2011.1)
書評者:多田蔵人、生方智子
司会:田口麻奈
〈企画趣旨〉(田口麻奈)
今回は、荒井裕樹さん『障害と文学』の書評会を土台として、〈2000年代の文学研究〉の多様な局面のなかでもとりわけ独自性の強い〈障害者文学〉研究という領域を共有し、その最前線に触れる機会を実現できることとなりました。

荒井さんによる〈障害者文学〉研究とは、〈障害〉(これ自体、言葉の規定力を再考させずにはいない語として現前していますが)を持つ当事者の手になる表現活動を広く対象とする研究であり、医学や障害学だけでなく、社会福祉学、倫理学など多くの隣接諸分野を引き受ける不定形な研究領域でもあります。
優れた研究が必然的に学際性を帯びる、または学際的な知見から優れた研究が達成される、という理想的な帰趨を目指して、今日〈学際性〉は研究者にとって不可避の条件であり課題でもありますが、〈障害者文学〉研究とは、〈学際〉の拠点とするべき文学研究の領域にもディシプリンの確立を見ず、さらには、学問であること自体を揺るがしていく〈当事者性〉の問題を中枢に抱えています。それが研究主体の位置を絶えず脅かし、また、根拠づけていく与件であるとすれば、〈障害者文学〉研究の抱える問いを共有することは、文学研究そのものを問うことにまっすぐ繋がるはずだろうと思います。

今回、『障害と文学』に関するお2人のコメンテーターの方からのご報告に加え、著者ご本人からもご発表頂ける運びとなりました。荒井さんのご発表は、大きくは以下のような論点が中心となる予定です。

①文学研究における「政治性」について
②「学際化」は如何にして可能か?
③当事者(病者・障害者)の文学を読む意味とは?

上記の問題は、個別の著書や論文の成果を通してだけではなかなかクリアにしにくい議論であるだけに、荒井さんとお2人のコメンテーターに加え、皆さまのお考えを伺える貴重な機会になるかと存じます。
メインコメンテーターは、去年『精神分析以前』を刊行された、広い意味での〈障害〉を主眼に据えた専門的なお仕事のある生方智子さんにお願いしております。また、同じ研究室の出身者として荒井さんのご研究に持続的に関わってこられた多田蔵人さんからもコメントを頂く事により、複層的な議論を形作っていければと考えております。

〈2000年代の文学研究〉の達成を再考するというきむすぽの年間テーマに照らして、大変重要な一角を確認する企画になるかと存じます。多くの方にお眼にかかれますのを、心より楽しみに致しております。


5.06.2011

第57回


日時:5月6日(金)17:00から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟404
【個人発表】
アーサー・ミッチェル「地震に揺れた社会をめぐる感覚活動:関東大震災と横光利一
のモダニズム文学」
使用テキスト:横光利一「無礼な街」

4.08.2011

第56回


日時:4月8日(金)17時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟412
【個人発表】鴻野知暁「ゾの係り結びの起源を考える」
【著者セッション】藤田護×藤井貞和×守田貴弘
藤井貞和『日本語と時間』(岩波書店、2010.12)