12.07.2012

第69回


12月7日(金)
【個人発表】
黄ジュンリャン「戦時上海における家庭、資本と旅をする女たち—林京子『ミッシェルの口紅』を中心に—」

【個人発表 要旨】
黄ジュンリャン「戦時上海における家庭、資本と旅をする女たち―林京子『ミッシェルの口紅』を中心に―」

<上海=戦争>と<ナガサキ=原爆>という二つのできごとを原点にして語ってきた林京子の過去にたいする記憶が、ただ時の再生ではなく、あらためて構築された「形あるもの」だということがよく強調される。今までの先行研究では林京子文学と歴史を結成する軸として<ナガサキ=原爆>のほうを中心に見るものは多いと思われるが、本発表ではむしろ彼女のいわゆる「上海もの」の分析を通して、林京子文学の違う側面を描き出すことを試みたい。彼女の上海ものはいずれも1980年代以降に書かれたものであるため、敗戦・被爆や戦後日本経済の高度成長、沖縄のアメリカから日本への返還、日中国交回復など諸々のできごとにより忘却され、上書きされ、あるいは遮断された記憶は、小説のテクストと上海在住当時の
歴史的コンテクストの間にあるさまざまな言語的空白から追跡できると思われる。本発表では、そのような空白を歴史調査の引用で埋めながら、女たちが表舞台に立ちあがり活躍する作品として『ミッシェルの口紅』を扱ってきた先行研究に反論を試みつつ、同小説を読みなおしたいと思う。

本発表では、1938年から1945年の虹口租界で起きた暴力的な場面が一つ一つ分解され、戦時上海における女性のさまざまな不在(アブセンス)と、その根本的な不在(アブセンス)から生み出されるさまざまな(不)可視についての議論が行われる。発表者はまず、夫の後について外地に移住しディアスポラになった女性たちの性を、植民地主義というコンテクストのなかで、メタレヴェルにおいて考察を試みる。彼女たちの、戦線と銃後の両方における不在(アブセンス)を示唆し、それは男の現前(プレゼンス)に上書きされ、男の性に収斂した結果だと主張する。次には、家庭という枠組みに焦点を移し、同時に第二次上海事変後の上海におけるイギリスと日本の競争関係や、日本軍国政府と大手商社や銀行の海外進出との緊
密な連結をも紹介しながら、資本をもつ中国人女性の男性中心的な政治舞台における特別な現前(プレゼンス)に注目する。最後には、家庭という枠組みの外側にあるところ、例えば職場や、あるいは「職場」というものさえ持てずに周縁的なところで苦闘している男や女の事例を見てみる。以上の議論で、「被害者」や「加害者」という図式から脱出し、戦時上海にいる女性という主体(同時に男性も)が呈する性の不在(アブセンス)や現前(プレゼンス)、屈辱や忠誠などの側面を重層的な記憶と記述を通して表現しようとする林京子の「上海もの」がもつ、彼女の原爆文学とは違った風格がすこし見えてきたのではないかと思われる。

【著者セッション】
高榮蘭『「戦後」というイデオロギ——歴史/記憶/文化』(藤原書店、2010年)
コメンテーター:逆井聡人 司会:岩川ありさ


【著者セッション 企画趣旨】
 1990年代以降、ひとつのできごとにはいくつもの語り方があり、歴史が編成されると
き、それぞれの立ち位置(ポジショナリティ)からしか物事を見ることはできないとい
うことが明らかになった。本書の「はじめに」にもあるように、この本は「戦後」とい
う意味内容の「空白性」に注目し、その空白が充填される際の言説的力学の働き方、つ
まり、「記憶の再編」のなされ方について分析している。戦前・戦中・戦後のそれぞれ
の時期に書かれたテクストが1945年以後如何に評価されてきたか、またその評価の際に
前提とされていた評価者の視座としての「戦後」がどんなものであったかが問題視され
ている。

 それでは「戦後というイデオロギー」とは何か。それはある特定の意味内容をさす言
葉ではなく、「戦後」という言葉が使われる際のその時その時の前提にされる「枠組」
自体である。その枠組は、それぞれの研究者や批評家の立場と同時代の言説状況に沿っ
て具体的に検討されている。ただ、それらの枠組に通底するのは「日本/韓国」という
国民国家を基準としたナショナルな線引きであったり、「日本民族/朝鮮民族」という
エスニシティを前提としていることだろう。二つの「国家」・二つの「民族」をソリッ
ドなもの(確固たる塊)として前提にすることが「戦後」という言葉を底支えしている
概念と言えるかもしれない。本書が、「ポストコロニアルの手法をとらない」と注意書
きしている理由はここにある。すなわち二つの別個の「国家」や「民族」を前提に、「
支配/被支配」「抑圧/抵抗」という二項対立的な図式を作り出してしまうことになり
がちな「ポストコロニアル」的視線を避けるということである。

 以上のことを踏まえて、本書はそれぞれのテクストが生成される場を捉えようとして
いる。そうした生成(創造)の場では、様々なアイデンティティーと同時代に特定の意
味を持った言葉たちが交錯している。それらが交錯する接点を綿密に捉えていくことに
よって、従来の固定化された言説(または神話ともいえるかもしれないもの)を脱構築
していく。そしてその脱構築が最終的に作用するのは、著者を含めた読者の「いま・こ
こ」であろう。つまり、本書に接した際に読者としてのわたしたちは、自らが今立って
いる位置、前提としている概念を改めて問いなおさなくてはならない。私たちは「歴史
」をどう見ているのか、「戦後」というイデオロギーに捉われているのだろうか、とい
う問いが目前に現れる。まさしく、現在進行形の問題として「歴史」を捉え、「歴史」
に捉えられている〈わたし〉の立ち位置(ポジショナリティ)が問うてくるのが本書だ
。今回の書評セッションではそのような自らの位置まで含めて議論できればと願ってい
る。

・本書の著者である高榮蘭(こう・よんらん)さんは、1968年、韓国・光州生まれ。19
94年に日本へ。2003年日本大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現
在、日本大学文理学部准教授。専門は日本近代文学。

・書評者の逆井聡人(さかさい・あきと)さんは、東京大学大学院総合文化研究科言語
情報科学専攻博士課程在籍。戦後の闇市や焼け跡の表象研究をはじめ、近現代日本文学
を専攻なさっています。今回は、近年の国外の日本近代文学研究を参照しつつ、東アジ
アというコンテクストにおいて日本語で書かれたテクストを読んでみることの重要性に
ついて話してくださいます。

*この趣旨文は、書評者である逆井さんのご協力をえて作成しましたことを書き添えま
す。


11.02.2012

第68回


11月2日(金) 
【個人発表】
茂木謙之介「個別を語るということ——関東大震災後鏡花テクストにおける〈怪異〉表現をめぐって」

【個人発表 要旨】
個別を語るということ――関東大震災後鏡花テクストにおける〈怪異〉表現をめぐって
茂木謙之介

 所謂「3・11」以降、文学研究はなぜ執拗にその〈出来事〉について言及し続けるのであろうか。ポストモダン議論が盛んであった際に前景化していたような、〈遅れ〉に意味を見出し、徹底して問題の前に立ち止まる態度を文学研究は忘却してしまったのだろうか。藤井貞和氏は1989年を「ポストモダンの終焉」(「歴史叙述のテクスト論的素描」『立正大学人文学研究所年報別冊第18号』2012年3月)と位置づけたが、それ以降の文学研究は果たしてアクチュアリティを追求することに対して相対的であっただろうか。
 本発表では関東大震災前、直後、そしてその後の泉鏡花のテクスト群を視野に入れ、これまでの鏡花研究でしばしば指摘されてきた〈怪異〉に注目し、分析を試みることを通して、巨大な破壊と喪失を語ることは如何にして不/可能であるかを考えたい。
 先行論では従来、震災を経ることによって鏡花テクストにいかなる変化が出来したか(もしくはしなかったか)が論じられてきた。本発表では先行論の論点となっているような単純な変化/不変化に収斂させるのではなく、複数のテクストを横断し、内在する問題に注目することで鏡花のテクスト世界にとって震災とは何であったかを問いたい。分析にあたっては、関東大震災に関わる鏡花テクストにおいて転換点として論者が位置付けるテクスト「二、三羽―十二、三羽」(大正12年)、「露宿」(大正12年)、「傘」(大正13年)(いずれも『鏡花全集』)を中心的に扱う。
 発表に当たっては所謂「3・11」以降の言説空間において、論者が問題視する以下の三点にも言及を試みたい。一つは過去の出来事のナイーブな召喚である。たとえば昨年3月の東日本大震災の如き〈出来事〉に出会ったとき、過去の出来事を類例とし、それを対象化する欲望は「アクチュアリティ」を要請される現在の人文学に在ってはある種不可避の事柄であるかもしれない。しかしその召喚する出来事を選択するに当たっては、その正当性を問う作業が当然必要なものとなってくる。第二点はまた、震災と鏡花テクストをめぐる先行論にも看取されるような、震災を画期として物語る欲望であり、またそれと密接な問題であるが、第三点は当事者の語り、もしくは当事者に寄り添った語りのもつ権力性・暴力性で
ある。この二点については昨年の日本文学協会シンポジウムとそれに寄稿した論者の印象記(拙稿「拡散する〈リアリティ〉(大会二日目印象記)」『日本文学』2012年4月号、日本文学協会)が詳しい為、ここでの説明は割愛するが、発表ではこれらの問題に踏み込むことをも目指したい。


【著者セッション】
仁平政人『川端康成の方法——二〇世紀モダニズムと「日本」言説の構成』(東北大学出版会、2011年)
コメンテーター:平井裕香  司会:村上克尚

【著者セッション 企画趣旨】
 今回の著者セッションでは、仁平政人さん(弘前大学)の『川端康成の方法――二〇世紀モダニズムと「日本」言説の構成』を取り上げます。
 本書は、新感覚派として出発し、後に日本回帰を果たした作家と文学史的に位置づけられることの多い川端康成を、詳細なテクスト分析という研究方法を通じて、戦前戦後と一貫したモダニズムの作家として位置づけ直そうとする刺激的な著作です。
 本書の最も新しい主張は、モダニズムとは言葉と実在の切断の意識を出発点として「西洋」や「近代」を問い直そうとした文学運動であり、川端の「日本」や「東洋」に関する言説は、そのようなモダニズム運動の世界同時性の中で改めて論じ直される必要があるという主張ではないかと思います。この意味で、本書は「日本」という特殊性のなかに閉じ込められ、窒息の憂き目にあったかに見える川端のテクスト群を、新しい多様なコンテクストに接続していくための重要な第一歩を記すものと言えるだろうと思います。
 今回は、川端のテクストをジェンダーの観点から読み直そうとされている平井裕香さん(東京大学・修士課程)にコメンテーターをお願いしています。平井さんは卒業論文では『雪国』を、修士論文では『千羽鶴』を扱いながら、川端テクストの新しい可能性を提示することを目指されています。平井さんのコメント、仁平さんの応答の後、全体での討論に移れればと思っています。
 なお、今回の企画実現にあたっては、個人発表を担当されている茂木謙之介さんにご尽力を頂きました。この場をお借りして、心よりお礼を申し上げます。


2012年度 今後の予定--------

第67回 12月7日(金) 
【個人発表】
黄ジュンリャン
【著者セッション】
高榮蘭『「戦後」というイデオロギ――歴史/記憶/文化』(藤原書店、2010年)
コメンテーター:逆井聡人
司会:岩川ありさ



10.05.2012

第67回


日時:10月5日(金)
【個人発表】
野崎有以「吉行淳之介と高度経済成長期の「家庭」」
 本発表では、「第三の新人」の一人として知られる吉行淳之介の著した作品について、「家庭」というテーマに着目しながら検討していきたいと考えております。それにあたって、吉行が多くの作品を著した時期である高度経済成長期の家庭についても考察していきたいと思います。高度経済成長期における家庭はどのようなものだったのか、あるいはどのような家庭が望ましいとされていたのかということについては、当時の教育政策や家政学系の雑誌でなされた議論をもとに検討したいと考えております。吉行淳之介の作品は、いままで「性」の観点から研究されることが多かったと考えられます。しかし、本発表では、「性」ではなく、吉行にとっての「家庭」や「家族観」はどのようなものであったのか、
またそれが戦後や高度経済成長期においてどのような意味を持ったのかということを掘り下げて行きたいと考えています。
 どうぞよろしくお願い申し上げます。

【参考文献】
本発表で主に用いる吉行の作品は以下の2つです。
『砂の上の植物群』(初出:『文学界』昭和38年1月号〜12月号)※1
『暗室』(初出:『群像』昭和44年1月号〜12月号)※2

※1新潮文庫から刊行。
※2講談社文芸文庫から刊行。
【著者セッション】

葉名尻竜一『コレクション日本歌人選 寺山修司』(笠間書院、2012年)
コメンテーター:桑原茂夫 司会:田口麻奈

『コレクション日本歌人選 寺山修司』(2012・2・29、笠間書院)

 代表的な短歌一首ごとに鑑賞・解説を施し、合計三十九首で一冊の入門書になるように編みました。辞典のようにどこからでも読み始められますが、それでも通読したときには、一つの〈像〉を結ぶように配慮したつもりです。なかには目にすることの少ない短歌も含まれておりますが、選歌もその方針にそって独自に行いました。
 そのため、書き進める作業で浮かんできた疑問や問題意識で、この〈像〉の枝葉に当たるようなことは、一旦脇に置かざるを得ませんでした。
 今回はその疑問を、研究発表の形式に整えて、報告致します。一つのネガから、別のプリントを焼き直したと考えていただければ、と思います。
 タイトルは「歌人・寺山修司の〈隣人〉」です。
 近年、生地・青森を中心に、実証的な資料調査が積み重ねられております。それでも、まだ確認できないことは多く、本人自らが、職業は「寺山修司」と宣言していたように、寺山には自己の履歴をパフォーマティブに語るところがあります。報告はその点に絞って行います。
 また、書評を担当していただく詩人の桑原茂夫さんは、ながらく『現代詩手帖』の編集にも関わっておられた編集者であり、現在、出版社「カマル社」の代表です。
 寺山だけでなく、寺山を見出した中井英夫さんとも、ライバルと目されていた唐十郎さんとも深いお付き合いのある方です。
 今回は書評の枠をいったん取り払って、寺山とその同時代人の実像を語っていただこうと考えております。

文責・葉名尻竜一


8.03.2012

第66回


日時:8月3日(金)
【個人発表】
位田将司「横光利一『上海」における「共同の論理」——形式・商品・機械」
(使用テクスト 横光利一『上海』、「機械」)
【個人発表 要旨】
位田将司「横光利一『上海」における「共同の論理」――形式・商品・機械」
 横光利一は評論「新感覚論」(1925)のなかで、感性的多様性と悟性的普遍性を共存させる論理を構築しようとしている。横光の所謂「形式主義」とは、この理論を基礎としているといってよい。そして横光は、まさにこの「形式主義」の理論を、都市「上海」のなかに見出したのである。
 横光が渡航した当時、1920年代の「上海」は複数の国籍の人間が集まり、多国籍企業
の商品が交易される場所であった。この多様な人間や商品は互いに対立し、相争いながらも「上海」という一つの都市に共存していたのだ。
 横光は「上海」という都市が、このような多様で対立的な関係性を、一つの「都会の
形式」にまとめ上げていたところに、「上海」に内在する「共同の論理」というものを見出すのである。横光にとって「上海」という都市は、自らの「形式主義」理論を体現した場所だったのである。
 今回の発表は上記のように、小説『上海』に横光の「形式主義」理論がいかなる影響を与えているかを 分析したいと考えている。
【著者セッション】

大原祐治『文学的記憶・一九四〇年前後——昭和期文学と戦争の記憶』(翰林書房、2006年)
コメンテーター:相川拓也 司会:逆井聡人

【著者セッション 企画趣旨】
 今回のきむすぽでは大原祐治さんの『文学的記憶・一九四〇年前後 昭和期文学と戦争の記憶』を扱います。
 本書は「記憶というものがある種の物語として語られるものであるなら、そのような記憶/物語を「文学」はどのような形で扱ってきたのか。」(「まえがき」より)という問いから始まり、「書かれる/読まれるという〈行為〉」としての「歴史」(〈文学的記憶〉)への絶え間ない近接を試みる姿勢が貫かれています。こうした姿勢は同時に自明のものとされ来たヒエラルキーの総体としての「文学史」にノイズを混入させていくものでもあります。しかし本書が、特殊性と差異を展示することに終始するようなポストモダン的態度から一定の距離を置いていることも読者はすぐに読み取ることができるでしょう。それは著者が〈文学的記憶〉という言葉で表した「文学」と「歴史」の交点を、不動の事実とし
て見るのではなく〈行為〉という動的な様態に見出そうとする営為によって明らかになることだと思います。
 この〈文学的記憶〉という言葉に託された研究に対する姿勢は、以前のきむすぽ著者セッションにお呼びした鳥羽耕史さんの『〈運動体〉安部公房』(一葉社、2007年)における〈運動体〉の概念や、「文学」をめぐる〈言葉〉が生起する〈場〉自体に注目をおいた佐藤泉さんの『戦後批評のメタヒストリー』(岩波書店、2005年)に共有されていると思います。昨年度から引き継がれている「2000年代の文学研究の再検討」というテーマを考える上では、本書は欠かせない一書と考え、今回この著者セッションの企画を提案させて頂きました。

 今回コメンテーターをお願いした相川拓也さんは、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士前期課程を経て、本年度から東京大学大学院総合文化研究科博士課程に在籍されています。相川さんは朝鮮近代文学、
特に1930年代のモダニズム、都市文化の研究を専門とされており、1940年代の日本近代文学を扱う本書とは直接の繋がりはないかもしれません。確かに、本書は1940年前後の〈文学的記憶〉を対象とし、「昭和/文学/研究」というそれぞれの言葉に内在する自明化されたヒエラルキーを揺らがすという目的を置いています。しかしながら、その視点はある特定の時期と「文学」に収まるものではなく、さらに「日本/近代/文学」という枠組み自体も内側から崩していくようなエネルギーがあることは本書の第七章「翻訳される記憶」が示していると思います。そうした意味では、相川さんも「日本文学」や「朝鮮文学」という枠組み自体が要請する権力構造に強い問題意識を抱えている方であり、議論を
活性化させてくれるのではないかと思いお願いすることにしました。

 昨年の三月十一日、大地震と大津波、そして原発事故という三つの大きな事態が同時に起こり、それに連なる悲劇に直接的/間接的に接してきた「私たち」は、それらがさらに生み出した新たな(しかし時に旧弊な)言葉たちに鼓舞され、または憤慨し、あるいは困惑してきました。ここにおいて起きていることこそ、まさに本書が問題にしている〈行為〉としての「歴史」であるように感じます。「ポスト3・11」もしくは「3・11以後」と言う時、「3・11」は出来事そのものとして対象化され、「ポスト」や「以後」は出来事の記述(大文字の歴史)としてアプリオリに提示されます。しかしながら、それは「ポスト3・11」もしくは「3・11以後」という繰り返される発話(〈行為〉)が生み出
している構造であることを本書は教えてくれます。『文学的記憶・一九四〇年前後 昭和期文学と戦争の記憶』の出版から6年を経て、著者である大原祐治さんが如何にその思想を発展させたのか。今回の著者セッションで伺えることを楽しみにしております。


文責、逆井聡人

7.06.2012

第65回


2012年7月6日(金)
【個人発表】
兵藤裕己「音を「描写」すること」(対象:泉鏡花「陽炎座」「南地心中」ほか)
【個人発表:要旨】
音を「描写」すること   兵藤裕己
 人の話を聞くとき、私たちはその人の顔をみる。あいての顔をみることで、意識の焦点はその人に結ばれ、声はことばとして聞き分けられ(分節化され)、周囲のざわめきはノイズとしてのぞかれる。本を読んだりテレビを見るのに熱中しているときも、まわりのもの音に気がつかないということはよくある。私たちの意識の焦点は、ふつう目が焦点を結ぶところに結ばれる。耳からの刺激は視覚によって選別され、不要なものは排除または抑制される。
  目の焦点(視点)をうつろにしてぼんやりしているとき、またはその状態で目を閉じてみたとき、目をあけていたときには気づかなかったもの音が聞こえてくる。目による選別がなければ、私たちの周囲は、見えない存在のざわめきに満ちている。
 耳からの刺激は、からだの内部の聴覚器官を振動させる空気の波動である。私たちの内部に直接侵入してくる音の物理的波動は、視覚の統御をはなれれば、意識主体としての「私」の輪郭さえあいまいにしかねない。
 この世界の向こう側にあるスピリチュアルな異界は、通常、視覚(光)によって遮断されている。近代小説における「描写」の問題は、「視覚」の比喩として語られる近代的な<知>の枠組みの問題としてあるだろう。本発表では、音を「描写」する泉鏡花の小説(「陽炎座」「南地心中」ほか)などを手がかりに、近代小説や古典物語における「描写」の問題について考えます。大方のご教示をお願いします。

【著者セッション】
野網摩利子『夏目漱石の時間の創出』(東京大学出版会、2012年3月)
書評者:加勢俊雄、ディスカッサント:西野厚志、司会:田口麻奈 

【著者セッション:企画趣旨】(田口麻奈)
今春、東京大学出版会より刊行された『夏目漱石の時間の創出』は、日本近代文学研究の第一線で際立った存在感を放ち続けてきた野網摩利子氏が、満を持して世に送り出す初の単著です。
今回のセッションは、本研究会にとって最古参のメンバーの一人である野網氏の多年にわたる挑戦的思考を、いよいよまとまった形で受けとることができる、という喜ばしい企画ですが、
しかし同時に、研究書としての本著の達成は、そのような内向きの感慨に浸ることを許さないほど鮮烈な問いかけとして文学研究全般に差し向けられている、と感じます。
人間の生の営みを真に表出する小説の〈時間〉の析出を主眼とする本著は、漱石の小説に呼びこまれた古今・東西の思想的、歴史的文脈を実証的に明らめるという確かな学術的方法に基づき、その意味で独善的な新奇さとは無縁でありながら、
しかもあらゆる既視感をふりはらって、論じ尽くされたかに見えた作品群を新たな相貌で立ち上げて見せました。
このような仕事が、夏目漱石研究という量・質ともにもっとも混み合った領域においてなされたことは、今後の文学研究に求められる新たな水準を、(そこを目指すことの険しさとともに)峻厳に指し示す出来事としてあります。
昨今の、日本の近~現代の文学を対象とした研究が、詩が詩であることの、小説が小説であることの意味を深掘する代わりに、その他の散文資料と変わらない手つきでそれを扱うという一定の傾向を、
私たちはそれぞれの賛否の気持ちを胸に、目にしてきたといえます。
無論、文学や文学研究に固有の価値が自明でなくなったこと自体は、歴史的経緯として得心すべき事態ですが、偏向をおそれずに述べれば、小説が小説であることの代えがたさを証し立てた、本書の光源はまさにそこにあります。
そして、小説と小説家への高い期待値を前提として、テクストの細部に徹底的にこだわった行論だからこそ、夏目漱石研究を超えてゆく理論的可能性を獲得したとすれば、
本著の立論は専門的に屹立していると同時に、別角度からの議論を呼び込む豊饒な土台でもあるでしょう。
日本近代文学の研究者はもとより、小説の生成や文学理論、本書で取り上げられた哲学・心理学の諸議論、東アジアの上に長い歴史的変遷を重ねてきた仏教思想など、関心の端緒は多岐にわたっておりますので、
ご興味をお持ちの多くの皆さまと、本著の試みを受け止める場を共有できればと思っております。
なおこの度は、コメンテーターとして英文学専攻の加勢俊雄さん、ディスカッサントとして谷崎潤一郎研究の西野厚志さんをお迎えするほか、
『夏目漱石は思想家である』(思潮社、2007年)をはじめ、漱石関連の優れたお仕事のある文芸評論家の神山睦美さんにご臨席頂く予定です。
刺激的な議論の場になることは間違いありません。
多くの皆さまにお目にかかれますのを、楽しみに致しております。




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きむすぽ(叙述態研)のみなさま、

 7月6日(6時からですね)の二つのセッション、楽しみにしています。二、三、紹介させてください。

 兵藤裕己さんは、私、80年代の初めに、琵琶法師を訪ねて、九州(南関町、熊本市、水俣市、鹿児島県内など。兵藤さんや佐々木幹郎らはさらに肥前琵琶も)をうろうろしていた時、かれは30歳か、私も30歳台終わりぐらいでした。平家の語りの実態をさぐりながら、『平家物語の歴史と芸能』『王権と物語』『太平記〈よみ〉の可能性』『〈声〉の国民国家』『演じられた近代』『平家物語の読み方』そして『琵琶法師』(岩波新書、CD附き)へと、未知の峰を踏雲し、知見をいまにもたらしました。何冊かは木村朗子さんの解説で文庫本にもなっています。もし、あのときの数年、九州にのこる最後の琵琶語りたち数人、なかに山鹿良之の語りが含まれる、を記録せず記憶にとどめずに20世紀を流してしまっていたァ
、と思うとぞっとする。兵藤はずっと続けて、ついに『琵琶法師』に至る。セルビアのグスラーを記録分析し続けたミルマン・パリイやアルバート・ロードを思い浮かべてよいでしょう。じつはつらい2年間のフィールドでしたが、日本社会が20世紀を生きられるか死ぬか、真のナラトロジーへの突破口はこの研究だ、と歯を食いしばり、私は挫折しましたが兵藤がやり遂げてくれました。

 かけつけてくれる神山睦美さんについてもぜひ紹介させてください。神山さんから事務局へ照会がありました。コメンテーターやディスカッサントの方にも知らせなければならないので、みなさま全員へ私から知らせます。『『それから』から『明暗』へ』(砂子屋書房、1982)は、何回かを『あんかるわ』に連載。『あんかるわ』は北川透の詩と批評誌。吉本さん(ら)の『試行』とともに、連載を含め、地道な著述を積み上げて行く活動誌でした(私は定期購読か、あるいは時評をやっていたので北川さんが送ってくれていたか)。神山さんは『試行』にも、そして『磁場』(田村雅之編集、国文社)にも、いろいろ書いていたと記憶する。『夏目漱石論―序説』(国文社)は『磁場』掲載以外は書き下ろしです。私も『磁場』には何度か書きました。神山さんはまさに全共闘世代。70~80年代をポストモダン(とりも直さずポスト全共闘)が支配するなか、地道な著述はほんとうにたいへんでした。既に紹介あった『夏目漱石は思想家である』や、小林秀雄論(第二回鮎川賞)や、『大審問官の政治学』(響文社)は、吹っ切れたような文体が、それでもなお若き神山の気迫を髣髴とさせています。『『それから』から『明暗』へ』は人物たち一人一人の時間の重層と、作品世界全体の底で深裂する時間の断層と、そして病に崩壊する直前で書き継がれる明暗の時間という、三つの時間で論じ切る。(神山『漱石の俳句・漢詩』〈笠間書院〉もあります。午前『明暗』、午後俳!
句漢詩の漱石……)

 「70~80年代をポストモダン(とりも直さずポスト全共闘)」というあたりを、私はほんとうにみなさまに伝えにくい。全共闘世代は右手にゲバ棒、左手に吉本、というスタイルで1972年の「十二の墓標」および浅間山荘とともに終わり、あと内ゲバが残存し死者の山。そのあとのまさに戦後のような「空白地帯」になだれ込むようにして、60年代にうだつのあがらなかった年配世代がポストモダンへ参入、全共闘世代のなかには身をひるがえして「ポスト~」へ「転向」するひとも多く、中心にはニューアカが誕生、ファッション、バブル期に吉本さんも同調、丸山は冷戦を永続するかのように論じるイデオローグと化します。しかしヨーロッパでは東ドイツをはじめとして、まさにその80年代よりポスト冷戦が手採
りされていました(チェルノブイリが冷戦〈ポストモダン〉を終わらせる)。私はそのようなポストモダンを頭からかぶり、払う火の粉でありつつ糧でもあるという蝙蝠で右往左往です。全共闘世代には友人達が多い(何しろ二倍、いるのだから)、「転向」したかれらははそれで無論、人生の生き方として正しいし、転向しない選択はさらに正しい。大学改革や雇用における男女参画(ジェンダー企画というか)は、体制内改革がわにまわったかれらの「良心」に拠ることが多い(評価はこれから)。神山さんは断固、転向を拒否しただいじな存在に見えます。ポストモダンを批判的に乗り越えようとしているのが現代のすべての研究状況でしょう(東アジアではまだ冷戦が終わっていないのですから)。 

 神山さん、兵藤さんたちと、3月に福島市、南相馬市へ行ってまいりました。吉本さんの訃報を受け取ったのはその地においてでした。

藤井貞和2012/06/28


6.01.2012

第64回


日時:6月1日(金)
【個人発表】
金ヨンロン「『斜陽』における<母なる存在>—戦後革命と象徴天皇制—」
【著者セッション】
坂田美奈子『アイヌ口承文学の認識論(エピステモロジー)——歴史の方法としてのアイヌ散文説話」(御茶の水書房、2011年) 書評者:遠藤志保、藤田護 司会:村上克尚

4.06.2012

第63回


日時:4月6日(金)
【個人発表】
村上陽子「日の丸と黒人兵 長堂英吉「黒人街」論」
【書評会】
佐藤泉『戦後批評のメタヒストリー 近代を記憶する場』(岩波書店、2005年)
書評者:村上克尚、司会:田口麻奈
【企画趣旨】 (コーディネーター:田口麻奈)

 昨春の原発事故は、戦後日本の経済発展を支えてきた対米政策の負の部分を強烈に
露呈させ、その体制の行き詰まりが誰の目にも明らかな事態となりました。
 歴史化された〈戦後〉の記憶と、そこにあった諸問題が、実際には終るべくもない審議事項として存在し続けていたことを痛感する現在であるといえます。
 著者の佐藤泉氏は、現在この問題に正面から向き合い最も精力的な活動を展開され
ている日本文学研究者の一人であり、戦後日本の行方を占った1950年代の再検討を、文学を媒介として先駆的に進めて来られた方でもあります。
 2005年つまり戦後60年という節目に刊行された本著を今取り上げさせて頂くのは、政治的・社会的諸制度が今日の様相で固定化される前、重要な分岐点を抱えて多くの思想と運動が交錯した1945~1950年代への視角が、そのまま現在を批判的に問い直す視角に接続されるからにほかなりません。
 今回のコメンテーターの村上克尚氏もまた、戦後文学の思想的可能性を現代に送り返そうとする思考を重ねてきた文学研究者であり、専門領域を同じくするお二人の議論を土台にして、開示された新たな問題点を、参加者の皆さまと共有できればと思います。
 
 ご専門に関わらず、ご関心をお持ちの皆さまはどうぞお誘い合わせの上ふるってご参加ください。
 いつもより大きい会場を用意して、お待ちしております。