7.06.2012

第65回


2012年7月6日(金)
【個人発表】
兵藤裕己「音を「描写」すること」(対象:泉鏡花「陽炎座」「南地心中」ほか)
【個人発表:要旨】
音を「描写」すること   兵藤裕己
 人の話を聞くとき、私たちはその人の顔をみる。あいての顔をみることで、意識の焦点はその人に結ばれ、声はことばとして聞き分けられ(分節化され)、周囲のざわめきはノイズとしてのぞかれる。本を読んだりテレビを見るのに熱中しているときも、まわりのもの音に気がつかないということはよくある。私たちの意識の焦点は、ふつう目が焦点を結ぶところに結ばれる。耳からの刺激は視覚によって選別され、不要なものは排除または抑制される。
  目の焦点(視点)をうつろにしてぼんやりしているとき、またはその状態で目を閉じてみたとき、目をあけていたときには気づかなかったもの音が聞こえてくる。目による選別がなければ、私たちの周囲は、見えない存在のざわめきに満ちている。
 耳からの刺激は、からだの内部の聴覚器官を振動させる空気の波動である。私たちの内部に直接侵入してくる音の物理的波動は、視覚の統御をはなれれば、意識主体としての「私」の輪郭さえあいまいにしかねない。
 この世界の向こう側にあるスピリチュアルな異界は、通常、視覚(光)によって遮断されている。近代小説における「描写」の問題は、「視覚」の比喩として語られる近代的な<知>の枠組みの問題としてあるだろう。本発表では、音を「描写」する泉鏡花の小説(「陽炎座」「南地心中」ほか)などを手がかりに、近代小説や古典物語における「描写」の問題について考えます。大方のご教示をお願いします。

【著者セッション】
野網摩利子『夏目漱石の時間の創出』(東京大学出版会、2012年3月)
書評者:加勢俊雄、ディスカッサント:西野厚志、司会:田口麻奈 

【著者セッション:企画趣旨】(田口麻奈)
今春、東京大学出版会より刊行された『夏目漱石の時間の創出』は、日本近代文学研究の第一線で際立った存在感を放ち続けてきた野網摩利子氏が、満を持して世に送り出す初の単著です。
今回のセッションは、本研究会にとって最古参のメンバーの一人である野網氏の多年にわたる挑戦的思考を、いよいよまとまった形で受けとることができる、という喜ばしい企画ですが、
しかし同時に、研究書としての本著の達成は、そのような内向きの感慨に浸ることを許さないほど鮮烈な問いかけとして文学研究全般に差し向けられている、と感じます。
人間の生の営みを真に表出する小説の〈時間〉の析出を主眼とする本著は、漱石の小説に呼びこまれた古今・東西の思想的、歴史的文脈を実証的に明らめるという確かな学術的方法に基づき、その意味で独善的な新奇さとは無縁でありながら、
しかもあらゆる既視感をふりはらって、論じ尽くされたかに見えた作品群を新たな相貌で立ち上げて見せました。
このような仕事が、夏目漱石研究という量・質ともにもっとも混み合った領域においてなされたことは、今後の文学研究に求められる新たな水準を、(そこを目指すことの険しさとともに)峻厳に指し示す出来事としてあります。
昨今の、日本の近~現代の文学を対象とした研究が、詩が詩であることの、小説が小説であることの意味を深掘する代わりに、その他の散文資料と変わらない手つきでそれを扱うという一定の傾向を、
私たちはそれぞれの賛否の気持ちを胸に、目にしてきたといえます。
無論、文学や文学研究に固有の価値が自明でなくなったこと自体は、歴史的経緯として得心すべき事態ですが、偏向をおそれずに述べれば、小説が小説であることの代えがたさを証し立てた、本書の光源はまさにそこにあります。
そして、小説と小説家への高い期待値を前提として、テクストの細部に徹底的にこだわった行論だからこそ、夏目漱石研究を超えてゆく理論的可能性を獲得したとすれば、
本著の立論は専門的に屹立していると同時に、別角度からの議論を呼び込む豊饒な土台でもあるでしょう。
日本近代文学の研究者はもとより、小説の生成や文学理論、本書で取り上げられた哲学・心理学の諸議論、東アジアの上に長い歴史的変遷を重ねてきた仏教思想など、関心の端緒は多岐にわたっておりますので、
ご興味をお持ちの多くの皆さまと、本著の試みを受け止める場を共有できればと思っております。
なおこの度は、コメンテーターとして英文学専攻の加勢俊雄さん、ディスカッサントとして谷崎潤一郎研究の西野厚志さんをお迎えするほか、
『夏目漱石は思想家である』(思潮社、2007年)をはじめ、漱石関連の優れたお仕事のある文芸評論家の神山睦美さんにご臨席頂く予定です。
刺激的な議論の場になることは間違いありません。
多くの皆さまにお目にかかれますのを、楽しみに致しております。




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きむすぽ(叙述態研)のみなさま、

 7月6日(6時からですね)の二つのセッション、楽しみにしています。二、三、紹介させてください。

 兵藤裕己さんは、私、80年代の初めに、琵琶法師を訪ねて、九州(南関町、熊本市、水俣市、鹿児島県内など。兵藤さんや佐々木幹郎らはさらに肥前琵琶も)をうろうろしていた時、かれは30歳か、私も30歳台終わりぐらいでした。平家の語りの実態をさぐりながら、『平家物語の歴史と芸能』『王権と物語』『太平記〈よみ〉の可能性』『〈声〉の国民国家』『演じられた近代』『平家物語の読み方』そして『琵琶法師』(岩波新書、CD附き)へと、未知の峰を踏雲し、知見をいまにもたらしました。何冊かは木村朗子さんの解説で文庫本にもなっています。もし、あのときの数年、九州にのこる最後の琵琶語りたち数人、なかに山鹿良之の語りが含まれる、を記録せず記憶にとどめずに20世紀を流してしまっていたァ
、と思うとぞっとする。兵藤はずっと続けて、ついに『琵琶法師』に至る。セルビアのグスラーを記録分析し続けたミルマン・パリイやアルバート・ロードを思い浮かべてよいでしょう。じつはつらい2年間のフィールドでしたが、日本社会が20世紀を生きられるか死ぬか、真のナラトロジーへの突破口はこの研究だ、と歯を食いしばり、私は挫折しましたが兵藤がやり遂げてくれました。

 かけつけてくれる神山睦美さんについてもぜひ紹介させてください。神山さんから事務局へ照会がありました。コメンテーターやディスカッサントの方にも知らせなければならないので、みなさま全員へ私から知らせます。『『それから』から『明暗』へ』(砂子屋書房、1982)は、何回かを『あんかるわ』に連載。『あんかるわ』は北川透の詩と批評誌。吉本さん(ら)の『試行』とともに、連載を含め、地道な著述を積み上げて行く活動誌でした(私は定期購読か、あるいは時評をやっていたので北川さんが送ってくれていたか)。神山さんは『試行』にも、そして『磁場』(田村雅之編集、国文社)にも、いろいろ書いていたと記憶する。『夏目漱石論―序説』(国文社)は『磁場』掲載以外は書き下ろしです。私も『磁場』には何度か書きました。神山さんはまさに全共闘世代。70~80年代をポストモダン(とりも直さずポスト全共闘)が支配するなか、地道な著述はほんとうにたいへんでした。既に紹介あった『夏目漱石は思想家である』や、小林秀雄論(第二回鮎川賞)や、『大審問官の政治学』(響文社)は、吹っ切れたような文体が、それでもなお若き神山の気迫を髣髴とさせています。『『それから』から『明暗』へ』は人物たち一人一人の時間の重層と、作品世界全体の底で深裂する時間の断層と、そして病に崩壊する直前で書き継がれる明暗の時間という、三つの時間で論じ切る。(神山『漱石の俳句・漢詩』〈笠間書院〉もあります。午前『明暗』、午後俳!
句漢詩の漱石……)

 「70~80年代をポストモダン(とりも直さずポスト全共闘)」というあたりを、私はほんとうにみなさまに伝えにくい。全共闘世代は右手にゲバ棒、左手に吉本、というスタイルで1972年の「十二の墓標」および浅間山荘とともに終わり、あと内ゲバが残存し死者の山。そのあとのまさに戦後のような「空白地帯」になだれ込むようにして、60年代にうだつのあがらなかった年配世代がポストモダンへ参入、全共闘世代のなかには身をひるがえして「ポスト~」へ「転向」するひとも多く、中心にはニューアカが誕生、ファッション、バブル期に吉本さんも同調、丸山は冷戦を永続するかのように論じるイデオローグと化します。しかしヨーロッパでは東ドイツをはじめとして、まさにその80年代よりポスト冷戦が手採
りされていました(チェルノブイリが冷戦〈ポストモダン〉を終わらせる)。私はそのようなポストモダンを頭からかぶり、払う火の粉でありつつ糧でもあるという蝙蝠で右往左往です。全共闘世代には友人達が多い(何しろ二倍、いるのだから)、「転向」したかれらははそれで無論、人生の生き方として正しいし、転向しない選択はさらに正しい。大学改革や雇用における男女参画(ジェンダー企画というか)は、体制内改革がわにまわったかれらの「良心」に拠ることが多い(評価はこれから)。神山さんは断固、転向を拒否しただいじな存在に見えます。ポストモダンを批判的に乗り越えようとしているのが現代のすべての研究状況でしょう(東アジアではまだ冷戦が終わっていないのですから)。 

 神山さん、兵藤さんたちと、3月に福島市、南相馬市へ行ってまいりました。吉本さんの訃報を受け取ったのはその地においてでした。

藤井貞和2012/06/28