8.03.2012

第66回


日時:8月3日(金)
【個人発表】
位田将司「横光利一『上海」における「共同の論理」——形式・商品・機械」
(使用テクスト 横光利一『上海』、「機械」)
【個人発表 要旨】
位田将司「横光利一『上海」における「共同の論理」――形式・商品・機械」
 横光利一は評論「新感覚論」(1925)のなかで、感性的多様性と悟性的普遍性を共存させる論理を構築しようとしている。横光の所謂「形式主義」とは、この理論を基礎としているといってよい。そして横光は、まさにこの「形式主義」の理論を、都市「上海」のなかに見出したのである。
 横光が渡航した当時、1920年代の「上海」は複数の国籍の人間が集まり、多国籍企業
の商品が交易される場所であった。この多様な人間や商品は互いに対立し、相争いながらも「上海」という一つの都市に共存していたのだ。
 横光は「上海」という都市が、このような多様で対立的な関係性を、一つの「都会の
形式」にまとめ上げていたところに、「上海」に内在する「共同の論理」というものを見出すのである。横光にとって「上海」という都市は、自らの「形式主義」理論を体現した場所だったのである。
 今回の発表は上記のように、小説『上海』に横光の「形式主義」理論がいかなる影響を与えているかを 分析したいと考えている。
【著者セッション】

大原祐治『文学的記憶・一九四〇年前後——昭和期文学と戦争の記憶』(翰林書房、2006年)
コメンテーター:相川拓也 司会:逆井聡人

【著者セッション 企画趣旨】
 今回のきむすぽでは大原祐治さんの『文学的記憶・一九四〇年前後 昭和期文学と戦争の記憶』を扱います。
 本書は「記憶というものがある種の物語として語られるものであるなら、そのような記憶/物語を「文学」はどのような形で扱ってきたのか。」(「まえがき」より)という問いから始まり、「書かれる/読まれるという〈行為〉」としての「歴史」(〈文学的記憶〉)への絶え間ない近接を試みる姿勢が貫かれています。こうした姿勢は同時に自明のものとされ来たヒエラルキーの総体としての「文学史」にノイズを混入させていくものでもあります。しかし本書が、特殊性と差異を展示することに終始するようなポストモダン的態度から一定の距離を置いていることも読者はすぐに読み取ることができるでしょう。それは著者が〈文学的記憶〉という言葉で表した「文学」と「歴史」の交点を、不動の事実とし
て見るのではなく〈行為〉という動的な様態に見出そうとする営為によって明らかになることだと思います。
 この〈文学的記憶〉という言葉に託された研究に対する姿勢は、以前のきむすぽ著者セッションにお呼びした鳥羽耕史さんの『〈運動体〉安部公房』(一葉社、2007年)における〈運動体〉の概念や、「文学」をめぐる〈言葉〉が生起する〈場〉自体に注目をおいた佐藤泉さんの『戦後批評のメタヒストリー』(岩波書店、2005年)に共有されていると思います。昨年度から引き継がれている「2000年代の文学研究の再検討」というテーマを考える上では、本書は欠かせない一書と考え、今回この著者セッションの企画を提案させて頂きました。

 今回コメンテーターをお願いした相川拓也さんは、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士前期課程を経て、本年度から東京大学大学院総合文化研究科博士課程に在籍されています。相川さんは朝鮮近代文学、
特に1930年代のモダニズム、都市文化の研究を専門とされており、1940年代の日本近代文学を扱う本書とは直接の繋がりはないかもしれません。確かに、本書は1940年前後の〈文学的記憶〉を対象とし、「昭和/文学/研究」というそれぞれの言葉に内在する自明化されたヒエラルキーを揺らがすという目的を置いています。しかしながら、その視点はある特定の時期と「文学」に収まるものではなく、さらに「日本/近代/文学」という枠組み自体も内側から崩していくようなエネルギーがあることは本書の第七章「翻訳される記憶」が示していると思います。そうした意味では、相川さんも「日本文学」や「朝鮮文学」という枠組み自体が要請する権力構造に強い問題意識を抱えている方であり、議論を
活性化させてくれるのではないかと思いお願いすることにしました。

 昨年の三月十一日、大地震と大津波、そして原発事故という三つの大きな事態が同時に起こり、それに連なる悲劇に直接的/間接的に接してきた「私たち」は、それらがさらに生み出した新たな(しかし時に旧弊な)言葉たちに鼓舞され、または憤慨し、あるいは困惑してきました。ここにおいて起きていることこそ、まさに本書が問題にしている〈行為〉としての「歴史」であるように感じます。「ポスト3・11」もしくは「3・11以後」と言う時、「3・11」は出来事そのものとして対象化され、「ポスト」や「以後」は出来事の記述(大文字の歴史)としてアプリオリに提示されます。しかしながら、それは「ポスト3・11」もしくは「3・11以後」という繰り返される発話(〈行為〉)が生み出
している構造であることを本書は教えてくれます。『文学的記憶・一九四〇年前後 昭和期文学と戦争の記憶』の出版から6年を経て、著者である大原祐治さんが如何にその思想を発展させたのか。今回の著者セッションで伺えることを楽しみにしております。


文責、逆井聡人