11.27.2013

第76回

今年も残りわずかとなって参りましたが、いかがお過ごしでしょうか。
さて、12月きむすぽのお知らせをお送りいたします。
今回は、木村朗子さんの新刊『震災後文学論――あたらしい日本文学のために』を取り上げます。
終了後には忘年会も企画しておりますので、ぜひ多くの皆さまのご参加をお待ちしております。

第76回叙述態研
日時:12月6日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター(センター棟502号室)
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html

【著者セッション】
木村朗子『震災後文学論――あたらしい日本文学のために』(青土社、2013年)
書評者:岩川ありさ(東京大学大学院)


【内容紹介】
未曾有の事態をどのように理解し、そして受けとめるか。いち早くその現実を咀嚼しようとし言葉にしてきたのはまさに文学であった。
「たかが文学。その内容を議論するよりももっと現実的なことを議論した方がよい」。はたしてそうだろうか。
もし文学が、直視しがたい現実を言葉にしているとするならば、そこで描かれているもの、描かれていないものは、まさに現実そのものの縮図ではないのか――。
ゆえにわたしたちは「震災文学」を読まければならないのだ。
「震災」以後の文学全体をとらえ、これまでの文学の歴史と断絶したところからはじまるあたらしい文学の歴史を見出す。
「震災後文学」を読みつづけ、海外に紹介しつづけてきた気鋭の国文学者が、専門領域を侵犯してまで著わす決意の書。(青土社ホームページより)

10.26.2013

第75回

秋深まる季節となりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
さて、11月きむすぽのお知らせをお送りいたします。
今回は山口直孝さんをお招きした著者セッションになります。
書評担当の木村政樹さんが、力のこもった企画趣旨をお寄せくださいました。
ぜひ皆さまお誘い合わせの上、ご参加ください。

第75回叙述態研
日時:11月1日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟502教室
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html
【著者セッション】
山口直孝『「私」を語る小説の誕生――近松秋江・志賀直哉の出発期』(翰林書房、2011年)
書評者:木村政樹(東京大学大学院)



***
【企画趣旨】
今回の著者セッションでは、山口直孝氏の『「私」を語る小説の誕生――近松秋江・志賀直哉の出発期』を取り上げます。本書では、日露戦争後の文学状況の変化のなかで、「「私」を語る小説」がいかにして成立したかという問題が、近松・志賀の小説の詳細な分析とともに論じられています。
著者のいう「「私」を語る小説」とは、「作家が自分自身を主人公兼語り手に設定した小説」のことです。これは、日比嘉高氏が『〈自己表象〉の文学史――自分を書く小説の登場――』で用いた、〈自己表象テクスト〉という概念との関係で位置づけられています。日比・山口両氏の概念は、従来用いられてきた「私小説」という語に代えて作られたものです。このような用語が改めて提示されなければならなかった理由は、本書のなかで述べられているので省略しますが、ここには「私小説」研究の分野に限定されない問題が含まれていると思われます。
そのひとつは、「文学史」という物語をめぐる問題です。「「私」を語る小説」という言葉を用いることは、既存の私小説起源論によって紡がれてきた物語を相対化する、有効な手段となりえます。本書の前提には、事後的に成立した価値観を過去に投影し、「結局自分自身の似姿を過去に探すことにしかならず、そのためにそこで起こる事態は合わせ鏡のような堂々めぐりでしかない」(日比前掲書)ような歴史記述に対する、明確な批判意識があるのです。
もうひとつは、過去の文化状況や文学作品を、いかに理解するかという問題です。「「私」を語る小説」の検討に際しては、同時代のテクストが持っていた、より細かな特徴にも注意が向けられています。たとえば、「旅を取り扱った作品」「書簡体小説」「日記体小説」などです。そうした内容・形式に関わる要素が現象として把握されるとともに、特定の小説の分析の際にもその点が留意されます。このように、周辺テクストの発掘とともに微細な表現にまでふみ込んだ考察では、(異)文化を理解することの倫理が絶えず要請されると考えられます。
以上二点の具体的な実践がなされているという意味において、本書は「私小説」研究、ないし個別の作家研究における達成に留まらない、文化・思想をめぐる諸学問領域において考察されるべき課題が提出されていると考えられるのではないでしょうか。本書をもとに、叙述態研究会に集まる多様な関心をお持ちの方々にとって、有意義な対話がなされることを望みます。書評は東京大学大学院博士課程の木村政樹が担当します。

9.21.2013

第74回

朝夕と涼しくなって参りましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
さて、10月きむすぽのお知らせをお送りいたします。
今回は個人発表の二本立てとなります。
ぜひ皆さまお誘い合わせの上、ご参加ください。

第74回叙述態研
日時:10月4日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟511教室
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html
【個人発表】
飯倉 江里衣「東北抗日連軍と満洲国軍の中の朝鮮人―異なる植民地体験とつくられた敵対関係―」
牧 藍子(2012年度東大総長賞受賞)「元禄疎句の広がり」 

***
【発表要旨】

飯倉 江里衣「東北抗日連軍と満洲国軍の中の朝鮮人―異なる植民地体験とつくられた敵対関係―」

 本報告では、日本の植民地支配下で朝鮮人の軍事経験がどのように培われたかを考察するために、1930年代以降の「満洲」(以下、満洲)における東北抗日連軍と満洲国軍の朝鮮人の経験について見ていく。1930年代以降の植民地下での朝鮮人による軍事経験は、満洲における中国共産党の抗日軍隊とそれに対抗する関東軍及び満洲国軍の中で培われた。朝鮮人が東北抗日連軍に入ったのは、中国共産党の組織の中で抗日闘争を行わざるを得ない境遇に置かれていたからであり、朝鮮人が満洲国軍に入隊したのは、社会的上昇手段が限られていた植民地下の朝鮮人に、ある種の幻想を抱かせた側面があったからであった。また、彼らは朝鮮人が朝鮮人を「討伐」し、東北抗日連軍の朝鮮人と朝鮮人民衆との関係を断ち切る
「匪民分離」政策という、日本の軍事戦略の下で軍事的敵対関係に置かれた。
 満洲国軍の朝鮮人指揮官が朝鮮人パルチザンの「討伐」を行った経験は、「匪民分離」政策の成功体験として、また朝鮮人民衆を味方につける政治闘争の勝利の体験として、植民地解放後の韓国軍の中で生かされた。このような満洲国軍出身者が植民地解放後に及ぼした影響を明らかにするためには、日本の植民地支配期の満洲で軍事経験を経た朝鮮人のパルチザン「討伐」経験に注目する必要がある。


牧 藍子「元禄疎句の広がり」 

    連句形式を基本とする俳諧の歴史の中で、付合が親句から疎句へと移った元禄期は、一つの大きな転換点にあたる。しかし、この元禄疎句の実態については、未だ十分に解明されていない。
 「梅に鶯」「月に雁がね」のような、語と語の固定的な連想関係によって、前句に付句を付ける親句とは異なり、疎句では詞の関係を直接の契機とはせず、前句全体に付句が調和するように付けられる。本発表ではまず、元禄期に作られた俳論書、付合手引書、連句作品等を用いて、元禄疎句の最大公約数的な性格を「うつり」を切り口に論じる。従来蕉風の付合手法として特別視されてきた「うつり」は、実際には元禄俳壇全体で希求されたものであり、「うつり」の語は元禄疎句の合い言葉のように用いられていた。
 一方、付合手法という観点からは同じ方向性を持つ元禄俳人の間でも、具体的な作品を分析するとその作風には違いがみられる。今回は元禄俳壇の主流である上方の当流俳諧師と江戸の蕉風俳人を例に比較を行う。故事を繰り返し用い、雅俗の落差によって滑稽さを生み出す手法がマンネリ化した時代、卑近な日常の中に和歌の伝統美に比肩しうる美を見いだそうとした芭蕉らに対し、上方俳諧師たちや彼らが相手にした大衆作者層は、当代語彙を多用することで俳諧性を追求している。

9.03.2013

第73回


まだまだ暑い日が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
さて、9月きむすぽのお知らせをお送りいたします。
今回も参加しやすい18時開始となっております。
ぜひ皆さまお誘い合わせの上、ご参加ください。

73回叙述態研
日時:96日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟414教室
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html
【個人発表】
村上克尚「戦後家庭の失調――小島信夫「馬」の政治性について」
村上陽子「又吉栄喜「ギンネム屋敷」試論」

***
【発表要旨】

村上克尚「戦後家庭の失調――小島信夫「馬」の政治性について」

小島信夫は、五〇年代半ばに家庭の問題への関心を表わし、「第三の新人」という範疇に分類されてきた。しかし、小島の家庭への関心は、政治的な領域からの撤退を示すのではなく、むしろ家庭の領域と政治の領域との不可分性の意識に支えられている。「馬」(当初は「家」と「馬」として発表、共に一九五四・八)という奇妙な家庭小説は、戦後に民主化されたと言われる家庭が、実際には男性を社会に奉仕させる一方、女性を家に囲い込むという仕方で、なお「主人」の論理を保存していることを示す。この「主人」の論理は、同時代の国家の「主権」をめぐる軍事的な論理とも共犯関係にある。登場人物の「僕」もトキ子も、このような「主人」=「主権」の論理に違和感を持っているが、家庭は親密な愛
情の場でなければならないという思い込みから、この論理に従属している。しかし、愛情の証として始められた家の増築は、まるで二人の潜在的な欲望を反映するかのように、馬という異質な他者を呼び込んでしまう。この馬は、「主人」の威容を支えるための「動物」であったにもかかわらず、そのような機能に還元されない単独的な生を生きることで、「僕」とトキ子の家庭を次第に失調させていく。馬に敗北する「僕」の姿は、異質な他者を排斥する「主人」の論理から、異質な他者を迎え入れる歓待の論理への移行を象徴しているように思える。そして、もしこのような読みが可能なのだとしたら、小島の小説に、父=治者にならねばならないという倫理を読み取ろうとする江藤淳の『成熟と喪失』が提示し
たパラダイムは大きく修正されねばならないだろう。

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村上陽子「又吉栄喜「ギンネム屋敷」試論」

 一九五三年の沖縄を舞台とする又吉栄喜「ギンネム屋敷」(一九八〇年)は、沖縄戦の中での朝鮮人軍夫や「従軍慰安婦」を描いた希有な作品である。沖縄人、朝鮮人、米軍人、二世兵士など、さまざまな立場の人間が交錯するこの作品は、第四回すばる文学賞を受賞したものの、わかりにくいという批判を受けた。そのわかりにくさは沖縄という土地において朝鮮人をめぐる記憶が正当に聞き取られ、記憶されることの不可能性と強く結び付いていると言える。

物語の枠を揺るがし、こぼれ落ちる声や記憶を「ギンネム屋敷」はどのように描こうとしているのか。本報告では、抑圧され、忘却されてきた〈他者〉としての朝鮮人の記憶が召還され、語られる過程において、新たに発動されてしまう暴力や聞き捨てられていく声について考えていきたい。

村上陽子(東京大学大学院)

6.24.2013

第72回

叙述態研(きむすぽ会)のみなさま

梅雨空が続く毎日、皆さまいかがお過ごしでしょうか。さて、7月きむすぽのお知らせをお送りいたします。皆さまの参加を心よりお待ちしております。なお、個人発表、著者セッションの企画は随時受け付けておりますので、運営まで気軽にご相談ください。

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第72回叙述態研  日時:7月5日(金)18時から  場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟502号室  (小田急線参宮橋駅下車 徒歩約7分
 <http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html>)
  

【著者セッション】  


神子島健『戦場へ征く、戦場から還る――火野葦平、石川達三、榊山潤の描いた兵士たち』(新曜社、2012年)  

書評者:相川拓也(東京大学大学院)、野上元(筑波大学)  
司会:村上克尚


【企画趣旨】今回の著者セッションでは、神子島健さん(東京大学助教)の『戦場へ征く、戦場から還る――火野葦平、石川達三、榊山潤の描いた兵士たち』を取り上げます。本書は、火野葦平、石川達三、榊山潤という三人の作家の小説に社会学的な見地からアプローチし、出征や帰還、復員というプロセスに伴う、軍隊の規範、習慣と軍隊外のそれとのあいだの葛藤や揺らぎについて考察した重厚な著作です。本書の「序章」がイラク戦争のインタビューで始まることからも明らかなように、著者の問題意識は、「戦後」という自動化した空間の中で、戦争を「遠い世界のごときもの」として感じ(させられ)てしまう「今・ここ」の問い直しに端を発しています。その上で、著者の前に、研究対象として、小説作品が浮上してきたのは重要ではないかと思います。「結論」では、小説からは、「それぞれの作者の戦争に対するスタンスや意図には収まりきらない戦場の様相や、帰還兵、復員兵が帰国後に持ち込む戦場の痕跡や、それを受け容れる側の人々の思い」を読み取ることができる、と述べられています。戦場を決して単純化することなく、複層的な諸相に注目しながら、自分なりに引き受け直していくこと。このような著者の姿勢に敬意を払いつつ、さらに深く、戦場の複層性を掘り起こしていくきっかけが、セッションの議論を通じて見えてくればと思います。
今回は、お二人の方にコメンテーターをお願いしています。一人目は、東京大学大学院博士課程の相川拓也さんです。相川さんは、昨年八月にもコメンテーターを務めてくださいました。一九三〇~四〇年代前半の植民地都市・京城に注目しつつ、文学表現を通じて、当時の社会や人々の経験を探ることを研究テーマとなさっています。最近のご論文には、「同化の夢語り――蔡萬植「痴叔」のアイロニー」(『言語情報科学 11号』、2013年)があります。二人目は、筑波大学の野上元さんです。ご専門は歴史社会学、社会情報学で、ご著書に『戦争体験の社会学――「兵士」という文体』(弘文堂、2006年)などがあります。現在は、戦争社会学研究会の中心メンバーとしてもご活躍されています。お二人のコメントと神子島さんの応答の後、全体での討論に移れればと思っています。

5.24.2013

第71回

第71回叙述態研
日時:6月7日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟509教室
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html



【個人発表】
八幡恵一「現象学における言語の理論―メルロ=ポンティとレヴィナス」
逆井聡人「金達寿「八・一五以後」における「異郷」の空間表象」


***
現象学における言語の理論―メルロ=ポンティとレヴィナス

「言語」は20世紀の哲学においてもっとも主導的な役割を果たした主題のひとつであ
り、さまざまな領域で多様なアプローチからの分析が行われた。現象学もその例外で
はなく、創始者フッサールはすでに『論理学研究』(1900/1901年)において、心理
学主義への苛烈な批判を展開しつつ、彼のいう「純粋論理学」の基礎づけを試みる一
方で、言語の意味や認識の構造に関する独特の考察を行った。「意味付与
(Sinngebung)」という発想や「思考は言語に先立つ」という確信によって支えられ
たフッサールの理論は、しかし後の現象学者の批判を招く。ここではとくにメルロ=
ポンティとレヴィナスという二人のフランスの現象学者を取り上げ、彼らがフッサー
ルの言語哲学にどのように―批判的に―応答し、そしてそれに対していかなる独自の
理論を構築したのかを検討する。この二人が言語を論じる仕方は本質的な部分で多く
の呼応をみせつつ、しかしやはり決定的に分かたれている。その近さと隔たりは、彼
らが「意味(sens)」という概念についてそれぞれもっていた固有の考え方を明らか
にすることでよりはっきりと際立つことになる。互いに対照的な彼ら二人の理論は、
言語がもつ可能性の二つの極を指し示しており、高度に抽象的な思想ながら、現実的
な言語使用を考える上でも示唆に富むものと思われる。

***

金達寿「八・一五以後」における「異郷」の空間表象

 本発表は敗戦直後日本の空間のイメージを、金達寿の戦後初期作品を通して検討する試みである。金達寿は祖国回復の希求を描き、在日朝鮮人文学の嚆矢である作家として知られている。しかしその金達寿が日本敗戦を機に発表した作品で、同時代の日本の様子を描いている作品が論じられることは稀である。こうした作品を検討する事は、戦後日本の領土イメージを多層化することに繋がると考える。発表では、1947年10月に雑誌『新日本文学』で発表された「八・一五以後」という作品を中心に、祖国への帰路という、首都圏の都市から玄海灘を渡るために下関や博多へ向う道のりと、その帰郷の挫折、そして首都圏へ再び戻るという登場人物たちの行動の動線に注目する。そのことによって、敗戦直後の日本という領土の不確定さと、またその内部に均一化されない民族の「帰郷」という移動のダイナミズムがあったことを確認する。
 こうした不安定で常に内部に移動を孕む空間は、敗戦直後の都市に現れた社会現象の一つである闇市という存在と強く共鳴する。この闇市は従来の戦後の都市文化を扱った研究において、復興の大衆的活力の象徴として捉えられることが多い。しかし闇市にはそうした一塊の「民衆」は存在しなかった。闇市は、日本人の戦災者や復員兵だけでなく、在日外国人たちによっても構成されており、その後の在日外国人の認識のされ方を強く縛り付けるものでもあった。こうした闇市の実態は発表で扱う金達寿の作品にも登場する。
 1945年8月15日を境に帰郷を願いながら玄海灘に向う登場人物たちにとって、それまで住んでいた街は去るべき土地であり、それは既に過渡的な空間である。しかしながら、最終的に玄海灘を渡れずに、元の住居地に戻ってきてしまう彼らは、その後の生活をその臨時性の中に留めざるを得なくなる。彼らにとって戦後日本という空間は復興の舞台ではなく、「異郷」であり続ける。こうした「異郷」としての空間認識が闇市の臨時性と強く結びつき、金達寿の短編作品の背景を作り出す。これまでの多くの研究が敗戦直後の都市空間を戦後が始まる場所としての捉えてきたことに対して、それとは異なる都市像を金達寿の作品の中から提示することが本発表の目的である。

4.18.2013

第4回 心のアート展――それぞれの感性との出会い

以前、著者セッションで来てくださった荒井裕樹さんの主催するイベントです。
もしお時間がありましたら、ぜひ足をお運びください。

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「第4回 心のアート展――それぞれの感性との出会い」

【日時】2013年4月24日(水)〜29日(月・祝) 10:00〜20:00(最終日は18:00
まで)
【会場】東京芸術劇場5階・ギャラリー1(池袋駅西口より徒歩2分、地下通路2b出
口直結)
※入場無料

今回は「特別展示」として、フランスから「アトリエ・ノン・フェール」の方々をお
招きしています。
「アトリエ・ノン・フェール」とは、パリ郊外の精神科病院メゾン・ブランシェで活
動をつづけてきたアーティスト集団で、現在はパリの街中を活動の舞台にしていま
す。
EU圏ではかなり頻繁に展示会が開かれ注目をあつめていますが、日本では今回はじめ
て実作品が展示されることになります。

ほかにも、松沢病院に通院しながら描き続けた孤高の画家「櫻井陽司」の作品や、毎
回本展にご協力くださっている漫画家の吾妻ひでおさんの作品も紹介されます。
特に櫻井氏の作品は、近年画壇内でも急速に評価が高まってきており、このような形
での一般公開は、今後ますます貴重になるかと思います。

もちろん、アート展のメインである公募作品(東精協加盟病院に入院・通院される
方々の作品)にも大変な力作がそろっており、また出展者たちのギャラリー・トーク
や座談会なども企画されております。

「入場無料」「出入場自由」で開催しております。近くにお寄りの際は、お気軽にお
立ち寄りください。



[第4回 心のアート展]http://www.toseikyo.or.jp/art/index.html


 

3.21.2013

第70回

日時:4月5日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、スポーツ棟第一研修室
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html
【著者セッション】
藤井貞和『文法的詩学』(笠間書院、2012年)
書評者:鴻野知暁、坂田美奈子、藤田護

今回は、昨年刊行されました、藤井先生の『文法的詩学』を集中的に議論する会となります。
ぜひ皆さまお誘い合わせの上、ご参加ください。
(5月きむすぽは開催日が祝日と重なるため、お休みの予定です)


[企画趣旨]
2013年度最初のきむすぽは、昨秋、詩論集『人類の詩』(思潮社)と同時刊行された、藤井貞和『文法的詩学』を受け止めるところから始まります。
「テクストを支える、言語の底を浚渫することなくして、物語の読解も、うたの享受もなかろうと思える」――これは本書の結びの章に見える一節ですが、今回メインコメンテーターを務めて下さるのは、そのような「テクストを支える言語の底」への深い問題意識を、これまでも度々この会で開示して下さった鴻野知暁さん、坂田美奈子さん、藤田護さんです。
さかのぼってみますと、ちょうど2年前にあたる2011年度4月きむすぽにて、本書の前史を形作る『日本語と時間』(岩波書店2010.12)の著者セッションが行われ、藤田護さんから、坂部恵氏の仕事を傍らに眺めつつ、『日本語と時間』を〈古文読みの理論〉として意味づける詳細なコメントが提示されました。
また同じ日に、個人発表枠では鴻野知暁さんが、本書でも大きな存在感を放つ大野晋氏の説と格闘しながら、係り結びの〈起源〉を考察されました。
〈時の助動辞〉を中心としたこの前著から、さらに包括的な原理論となった本書に、お二人があらためて対峙する今回のきむすぽは、2年前の著作と議論をご記憶の方にとっても、また本書ではじめて議論に接する方にとっても、たいへん刺戟的な場になることと存じます。
また、昨年の6月きむすぽにて、歴史学の方法論的葛藤の先に、アイヌ口承文学を新たな地平に位置づけようとする坂田美奈子さんを囲んでセッションを開催したことは記憶に新しいところですが、本書の洞察に欠かすことの出来ないアイヌのことばを専門とする坂田さんが、さらに深く議論を掘り下げる端緒を与えて下さることと思います。
本書にとって大事な成立要件を語る著者の言葉に触れて、企画説明に代えさせて頂けるならば、本書は、震災後私たちの多くが突き当たらざるを得なかった「ことばは無力か?」という問いに深く答えるために纏められました。
「われわれのうちなる、けっして無力であることのできない部位」を明らかにする言語理論として差し出された本書をめぐって、著者の藤井先生と、皆さまと、さまざまに議論を交わせるのを楽しみに致しております。
どうぞ、ふるってご参加ください!


「文法的詩学」
「物語を読む、うたに心を託す」ために必要な言語理論を案出する書。

「時枝、佐久間、三上、松下、三矢、そして折口、山田、大野、小松光三、あるいはチョムスキー......絢爛たる文法学説の近代に抗して、機能語群(助動辞、助辞)の連関構造を発見するまでの道程を、全22章(プラス終章、附一、附二)によって歩き通す」

物語や詩歌を読むことと、言語学のさまざまな学説たちとのあいだで本書は生まれた。
古典語界の言語を当時の現代語として探究する。

【「物語を読む、うたに心を託す」という、私の研究の道のりのなかばで、物語を解読するために、また、うたに遊弋するために、必要な言語理論を案出したい。
 教室では、既成の文法―学校文法を代表とする―を利用しながら、そして、それらが欠陥品であることを、だれもが知っていて、それらへの修復につぐ修復をみんなで試みながら、なんとか凌ぎ凌ぎして、物語やうたを読み、かつ味わい続ける。
 それに飽き足らなかった自分だと思う。いつしか、文法理論の藪へ迷い込んで、「おまえは何をしているのか」と、友人たちの訝しみの視線が、背なかに突き刺さる歳月、それでも言語じたいへの関心(夢想のような)を抱き続けてきた
 物語にしろ、うたにしろ、無数の文の集合であり、言い換えれば、テクストであって、それらが自然言語の在り方だとすると、文学だけの視野では足りないような気がする。言語活動じたいは、文学をはるかに超える規模での、人間的行為の中心部近くにある、複雑な精神の集積からなる。......はじめにより】