12.20.2014

【案内】「クィア理論と日本文学―欲望としてのクィア・リーディング―」

木村朗子さんからのお知らせです。ぜひご参加ください!
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立命館大学国際言語文化研究所主催
国際コンファレンス
「クィア理論と日本文学―欲望としてのクィア・リーディング―」

※事前予約不要・入場無料

日時: 2015年1月9日(金) 13:00-17:30
    2015年1月10日(土) 10:00-18:00
会場: 立命館大学衣笠キャンパス創思館1階カンファレンスルーム
    

基調講演
キース・ヴィンセント (ボストン大学)
「日本文学をクィア・セオリーで読む:漱石を例に」
〈対談〉 キース・ヴィンセント×上野千鶴子(立命館大学特別招聘教授)

ゲスト・スピーカー
〈招待講演〉 クレア・マリィ(メルボルン大学)

木村朗子(津田塾大学)
アンドリュー・ガーストル(SOAS)
呉佩珍(台湾政治大学)
黒岩裕市(フェリス女学院大)

発表者
スティーブン・ドッド(SOAS)
道下真貴(立命館大学大学院)
宮田絵里(立命館大学大学院)
岩本知恵(立命館大学大学院)
飯田祐子(名古屋大学)
泉谷瞬(立命館大学大学院)
リゴ・トム(パリ第4、第7大学大学院)
フィリップ・フラヴィン(大阪経済法科大学)
ハナワ ユキコ(NYU)
トゥニ・クリストフ (東京大学)
(以上、発表順)

開催趣旨
 1990年代に発足したクィア・スタディズはまさしくアクティヴな学問的思考の方法である。社会学を中心とする研究の方向は、ジェンダー研究とクロスしながら発展していったが、文学研究においては文学作品を素材として提供はするものの、理論的な取り込みについては不十分であったといわざるを得ない。クイア・リーディングが極めて有効に作品読解の重要な鍵となっていくであろうという予測を糧として、クイア・リーディングの多面的な可能性を日本文学というテキストに照射してみたいと考えている。それはおそらくは日本文学研究の新しい方向を模索する試みとなって、本国際コンファレンスの基本的な立場を形成していくことになるであろう。

http://ritsnichibunkai.blog.fc2.com/blog-entry-58.html

12.01.2014

第84回

早いもので、もうすぐ一年も終わりですね。
今年最後のきむすぽのお知らせをお送りいたします。

今回は個人発表と著者セッションの2本立てで、開始が「17時」と早くなっております。
どうぞご留意ください。
なお、研究会終了後は、忘年会を予定しております。
ぜひたくさんの方々とお目にかかれますことを願っております。

日時:12月5日(金)17 時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター(センター棟412教室

【個人発表】坂田美奈子「アイヌ口承文学の解釈学へむけて:散文説話におけるモチーフの役割について」

【著者セッション】中谷いずみ『その「民衆」とは誰なのか――ジェンダー・階級・アイデンティティ』(青弓社、2013・7)コメンテーター:北山敏秀


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【 個人発表 要旨】坂田美奈子「アイヌ口承文学の解釈学へむけて:散文説話におけるモチーフの役割について」


 ミルマン・パリーとアルバート・ロードによるフォーミュラ理論は口承文学における定型句、モチーフ、話型などの単位に着目して口頭伝承独特の構成法を見出し、その後の研究に多大な影響を与えた。しかしながら一方で、口承文学のこれらの構成単位の扱いについては、文学的解釈の点であまりに機械的であり、物語を矮小化しているという批判も同時にあった。これに対しジョン・マイルス・フォーリーは、フォーミュラ理論に読者受容論を掛け合わせることによって、口承文学の美学的読解を可能にする道筋をつけた。ボスニアの叙事詩やホメロス、ベオウルフの分析を通して、定型句や話型が単なる韻律あわせの道具や決まり文句なのではなく、テクスト外の意味を指示するサインであって、そのサインを受け取った聞き手がその意味を頭の中で展開し、受容することによって最終的に物語が完成するのだと述べている。口頭伝承の形式は、したがって無味乾燥な決まりごとであるどころか、サインの指示を理解しさえすれば、それによって物語がより豊かに奥行きを増す仕掛けになっているというのである。このような働きをフォーリーはtraditional
referentialityという言葉で表している。
 本報告では、以上のようなフォーリーの提起を念頭におきつつ、アイヌ口承文学における頻出モチーフや話型に着目しながら、物語を読む試みを行いたい。モチーフや定型句、話型などの構成単位を単なる形態論で終わらせるのでなく、それらを通して物語を読むためには、モチーフが指示するものをあらかじめ知らなければならないが、アイヌ口承文学の場合、それ自体が探求すべき最初の課題となる。本報告では、いくつかの頻出モチーフを事例に、それらを共有する物語群を重層的に読みながら、特定のモチーフがどのような意味の広がりをみせるのか探ってみたい。

【著者セッション 企画趣旨】

今回の著者セッションでは、中谷いずみさん(奈良教育大学)の『その「民衆」とは誰なのか――ジェンダー・階級・アイデンティティ』を取り上げます。本書は、1930年代の農民文学、戦争文学、綴方教室、および50年代の国民文学論、生活綴方運動、女性の平和言説などを対象として、「ある人びとが「民衆」「大衆」「人民」など〈被支配〉側に属する存在として名指され、呼びかけられる際に生じるさまざまな力学」を問題化した著作です。
「はじめに」や「終章」でも強調されるように、本書が批判する「表象の政治」は決して過去の問題ではなく、均質で、無垢(無知)な「民衆」を表象=代理し、その「対抗性」に依拠しようとする身振りは、現今の劇場型政治に、あるいはそれを批判しようとする側にまで共有されてしまっています。この意味で、本書についての議論は、自ら2014年の現在を問うものに展開していくのではないかと考えています。
今回は、大江健三郎をご専門とする北山敏秀さん(東京大学大学院)にコメンテーターをお願いしています。最新のご論稿である「大江健三郎の「自殺」する肉体――「セヴンティーン」「政治少年死す」という投企」(『日本文学』、2014年9月)が示しているように、北山さんのご関心も、大江健三郎という作家の表象が、社会、そしてときには本人によって、同時代の文脈を忘却=抑圧することで立ち上げられてしまうことの政治性を批判的に検証することにあるように思います。北山さんのコメント、中谷さんの応答を経て、全体での討論に移れればと思っています。

10.27.2014

第83回

秋も深まってまいりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

さて、11月きむすぽのお知らせをお送りいたします。
皆さま、どうぞふるってご参加ください。

日時:11月7日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟509教室
【著者セッション】

滝口明祥『井伏鱒二と「ちぐはぐ」な近代――漂流するアクチュアリティ』(新曜社、2012・11)コメンテーター:金ヨンロン



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【企画趣旨】
 今回の著者セッションでは、滝口明祥さん(大東文化大学)の『井伏鱒二と「ちぐはぐ」な近代――漂流するアクチュアリティ』を取り上げます。本書は、「井伏は常に具体的・歴史的な状況と対峙していた作家なのであり、その作品はそうした同時代コンテクストとの交渉の産物としてある」という観点のもと、ときに厳しく先行研究と渡り合いながら、従来の作家イメージの下に隠されていた、井伏文学の新しい可能性を提示した意欲作です。
また、本書は、「みすず」の2014年の「読者アンケート特集」でも、鶴見俊輔さんに取り上げられ、「まったく思いがけず手に取り、久しぶりに新しい才能に出会ったことを感じた。ゆきとどいた理解が、厳しく、そして井伏そのものへのすぐれた批評となっている」という高い評価を受けています。実際、「表象」の困難や「異種混淆性」へのこだわりという新たな機軸で、井伏文学の一貫した道筋を提示する本書の姿勢は、新しく、スリリングなものだと言うほかありません。

 今回は、同じく井伏や太宰を専門とする金ヨンロンさん(東京大学大学院)にコメンテーターをお願いしています。同時代のコンテクストを重視した読解という点で、お二人の研究方法は近接していますが、同時に力点の差異もまた存在するように思います。お時間のある方は、ヨンロンさんの最新のご論考である「閉ざされていく「幽閉」の可能性――井伏鱒二「幽閉」から「山椒魚」への改稿問題を中心に」(『日本文学』、2014年9月)もぜひご参照ください。ヨンロンさんのコメント、滝口さんの応答の後、全体での討論に移れればと思っています。

9.28.2014

第82回


すっかり涼しくなりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

さて、10月きむすぽのお知らせをお送りいたします。
皆さま、どうぞふるってご参加ください。

日時:10月3日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟410教室
【著者セッション】
中田健太郎『ジョルジュ・エナン――追放者の取り分』(水声社、2013・11)
コメンテーター:山腰亮介、森田俊吾、大井奈美

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【内容紹介】
編集者、批評家、活動家、そして詩人…….
数多の顔をもつコスモポリタンにしてエジプト・シュルレアリスム運動の主導者、ジョルジュ・エナン。西欧諸国を渡り歩いた幼年時代、カイロの政治青年としての活動、ブルトンとの共闘と離別、そして祖国エジプトからの亡命—。詩篇を読解しながら波瀾万丈の生涯と思想の足跡をたどる。(水声社ホームページより)

7.21.2014

第81回(開始時間にご注意下さい)


第81回叙述態研

日時:8月1日(金) 「15時」から場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟504


【著者セッション】

石井弓『記憶としての日中戦争 インタビューによる他者理解の可能性』(研文出版、2013年)

書評者:岩川ありさ(東京大学大学院)

【企画主旨】
 叙述態研究会(きむすぽ)では、これまでも、戦争の記憶を伝達するということについて議論してまいりました。今回の著者セッションでは、石井弓さんの『記憶としての日中戦争
インタビューによる他者理解の可能性』(研文出版、2013)をとりあげます。

 石井さんは、本書の中で、「体験していない過去の戦争をあたかも体験したかのように語るということをどのように理解することができるか」という問いに答えようとします。日中戦争の記憶は、一方では、個別の記憶を抽象化した「戦争表象」として国民国家の中で共有されるのに対して、農村のような「顔の見える実体的なコミュニティ」においては、具体的な「語り」のかたちで人から人へと伝達されます。

 果たして、インタビュー調査を行う研究者は、「記憶する主体」と出会う中で、どのような位置からフィールドに参加し、「動的な戦争記憶」を記述することができるのか。今回の著者セッションでは、戦争を記憶化するメカニズムについて話しあうと同時に、他者の記憶を理解することの可能性と限界についても議論したいと思います。

【著者紹介】
石井弓:専門は、中国地域研究、オーラル・ヒストリー。2010年「記憶としての日中戦争」をテーマに博士号を取得。現在、東京大学総合文化研究科特任准教授。2009年には第6回太田勝洪記念中国学術研究賞受賞。中国山西省でのフィールド・ワークを中心にして、北京での調査も継続している。

6.30.2014

第80回


第80回叙述態研

日時:7月4日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟505教室
【個人発表】

藤田護「南米ボリビア・アンデスのアイマラ語とアイマラ語の口承文学の語り」


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【発表要旨】
 報告者は2009年度より南米のボリビア・アンデスでアイマラ語の口承文学の聞き取り調査を続けている。アイマラ語は、南米で、スペイン語とポルトガル語を除くと、ケチュア語とグアラニー語に次ぐ話者をもち、アンデス山地の高原部で約200万人の話者をもっている。

 アイマラ語には、情報源を区別しなければならない、すなわち自らの体験に基づくのか他から聞いた話なのかを動詞の活用として区別しなければならないという文法上の特徴があり、これは隣接するケチュア語とも共有される特徴であるが、さらにアイマラ語では引用を複雑に組み合せて語りを組み立てていくという特徴がある。

 そのような文法的側面の過度の強調は言語使用における自由を見逃すのではないかという批判がこれまでになされてきたが、実際にアイマラ語の物語りは変わりゆく現実に対して動的に適応・対応していくという性格をもつことは、これまでの報告者の調査からも明らかになっている。それは、話者が動詞の活用や引用を複雑に操り、複数の時代を手繰り寄せながら語っているからであり、また一見現実と切れた話でも、話を語り終えた後にコメントが挟まれたり、それに対する会話がなされたりすることで、現実とのつながりを確保し、現実を説明するための位置づけを獲得していくからなのではないだろうか。
 「口承文学」と「オーラルヒストリー」の間の区分は絶えず疑問に付されなければならないとしても、その二つの間を自在に動くかのようなアイマラ語の口承の語りの性質を理解するために、実際の話の展開を追い、原文と音声を参照しつつ、考察をすることとしたい。(藤田護)

6.16.2014

日本社会文学会春季大会

村上克尚さんからの告知です。
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 皆さま

 いつもお世話になっております。
今回は学会の告知をさせて頂ければと思います。 
今週の土曜日に東京学芸大学にて、日本社会文学会春季大会が開催されます。
金石範さんによる基調講演のほか、 きむすぽのメンバーである、金ヨンロンさんや林少陽さんのご発表もあります。
どなたでも参加可能ですので、ぜひお誘い合わせの上、足をお運びください。 どうぞよろしくお願いいたします。

 村上克尚
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 日本社会文学会春季大会「グローバルアジアと社会文学――歴史から未来へ」
 日程 2014年6月21日(土)
 場所 東京学芸大学 S410教室

 〈研究発表〉(午前9時30 分より)
 崔恵秀「「言」から「文」へ――中里介山「高野の義人」の改稿をめぐって」
 金ヨンロン「テクストを統御する暴力 ――井伏鱒二『谷間』を中心に」
 黒川伊織「戦後文化運動における朝鮮戦争の経験――新日本文学会神戸支部を中心に」
 梁禮先「日本プロレタリア文学の朝鮮・朝鮮人像から読む現在と未来」

 〈講演〉(13時より)
 金石範「文学にとっての歴史」(仮題)

 〈シンポジウム〉(14時より)
和泉司「国共内戦と日本、そのときの邱永漢――「長すぎた戦争」を中心に」(豊橋技術科学大学)
波潟剛「コロニアル・モダニティの射程――グローバルアジアの時代に」(九州大学)
林少陽「章炳麟とアナーキズム運動との関係――その「国家」論を中心に」(東京大学)
権赫律「一九二一~一九二二年における春園・李光洙の「親日」小考」(吉林大学)

日本社会文学会 http://ajsl.web.fc2.com/

6.04.2014

第79回

6月きむすぽのお知らせをお送りいたします。
今回は個人発表の回となります。皆さま、どうぞ足をお運びください。

第79回叙述態研
日時:6月6日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟小研修室3A
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html
【個人発表】
伊藤優子「「文学界」グループと中原中也の交錯――「六月の雨」まで」
平井裕香「恐怖を恐怖する言語―川端康成「針と硝子と霧」に読むジェンダーの編成」

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【発表要旨】
伊藤優子「「文学界」グループと中原中也の交錯――「六月の雨」まで」

 1934年6月号より再刊された雑誌「文学界」はいわゆる「文芸復興」を主導した雑誌として知られているが、その運動の中で小説・批評と共に詩の果たす役割の可能性が作家達により議論されていたことはあまり注目されていないように思われる。論議は「文学界」が文壇の中心雑誌へと移行していく過程で活発になり、そこには中原中也の知友小林秀雄・河上徹太郎がいた。「文学界」は中原中也の存在を「文壇」内に周知させる一転機として位置づけられているが、同人達が見る詩人像と見られる詩人の意識は必ずしも一致していない。
 発表ではまず、雑誌の「六号雑記」や「編輯後記」、誌上座談会から文学の危機的状況が共通認識として語られる一方で、新たな文学者が希求されていく様相を検討する。その中で中原中也は「文学界」グループが発見した詩人として誌面前景に登場してくる。
 次に、雑誌掲載評論「詩と其の伝統」が批評家、特に河上との応答によって書かれていること、両者の詩の概念が類似していることを確認する。これ以前から彼等の詩観には「対象と心象との距離」が重要な問題として共有されているのだが、それを実作として示したものが「六月の雨」ではないだろうか。こうした試みと若い批評家たちの思惑との交錯を通して、この時期の中原中也の仕事を発表媒体との関係で位置づけ直すことを目的とする。


平井裕香「恐怖を恐怖する言語―川端康成「針と硝子と霧」に読むジェンダーの編成」

 本発表の目的は、川端康成の「針と硝子と霧」(「文学時代」一九三〇年一一月)を、それを取り巻いている「文学」をめぐる共時的・通時的な言説編成を相対化しつつ読むことである。先行研究において繰り返し語られ、実体化されてきた感のある作中人物・「朝子」の〈狂気〉を、「作者」と「読者」が共犯的に[再]生産する意味として捉え直し、そのような意味生産のメカニズムを明らかにすること、と言い換えることもできる。「朝子」の言葉は、それを〈狂気〉として対象化することによって、またそのような対象化を可能にするために、「弟」「夫」「作者」及び「読者」の言葉が構築する閉鎖的なコミュニケーションに、ノイズをもたらしている。とりわけ、先行研究においては引かれることの稀であった、「朝子」が「おかあさん」に宛てて記した手紙として提示される物語世界内的エクリチュールは、母と娘を対話不可能な一体性の中に閉じ込めることによって「女」の〈狂気〉或は〈狂気〉の「女」を現出する、異性愛男性中心主義的な言語に抵抗している。そのような言説の争闘の場として、また「作者」と「朝子」の言葉が確たる境界を失していく過程として読まれるとき、「針と硝子と霧」は、「小説」を読む/書く行為に蔓延る「恐怖恐怖症」の徴候を炙り出すテクストとして顕れるだろう。
 ※本発表は、日本文学協会第33回研究発表大会(二〇一三年七月七日、神戸大学)における口頭発表「娘の言葉―川端康成「針と硝子と霧」及び「母の初恋」におけるジェンダーの編成」の内容の一部に、大幅な加筆・訂正を加えたものである。

4.23.2014

第78回



今回は、著者のお一人である橋本健二さんをお招きして、各所で話題の『盛り場はヤミ市から生まれた』の著者セッションを開きます。
書評をご担当くださるのは、東京大学助教の神子島健さんです。
今回の企画は、ヤミ市研究会のメンバーであり、本書にもご論考を寄せている、逆井聡人さんが中心となって実現しました。皆さま、どうぞふるってご参加ください。

第78回叙述態研

日時:5月2日(金)18時から

場所:国立オリンピック記念青少年総合センターセンター棟413教室
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html


【著者セッション】

橋本健二・初田香成編著『盛り場はヤミ市から生まれた』(青弓社、2013年)

書評者:神子島健(東京大学大学院)


【企画主旨】
 今回の著者セッションでは社会学者の橋本健二先生(早稲田大学人間科学学術院教授)をお招きいたします。
 橋本先生はご専門の階級・社会階層に関する研究でご活躍の一方、昨年末に出版された『盛り場はヤミ市から生まれた』(青弓社、2013年)の編著者であり、ヤミ市研究会の代表者でもあります。近年、テレビドラマや映画等で頻繁に敗戦直後のヤミ市の風景が登場するようになりました。また、商店街の復興や再開発という都市計画の文脈でも戦後ヤミ市の由来や可能性を探るような例もあります。一方で、現在の日本の政治が、「戦後レジームからの脱却」を文句に「戦後」を消却しようとする態度を露骨に示しています。
 そのような現在の状況の中で敗戦直後のヤミ市をみることがどのような問題系を明らかにしてくれるのか、「ヤミ市」を学術研究の一つの場として改めて提示することにどのような可能性があるのか、そのことを中心に橋本先生に伺ってみたいと考えております。コメンテーターは、以前に当研究会で取り上げた『戦場へ征く、戦場から還る』(新曜社、2012年)の著者である神子島健さん(東京大学総合文化研究科国際社会科学専攻助教)に担当して頂きます。

【著者・コメンテータ―略歴(敬称略)】
橋本健二
1959年、石川県生まれ
専攻は理論社会学・格差社会論
著書に『階級都市』(筑摩書房)、『「格差」の戦後史』(河出書房新社)、『新しい階級社会
新しい階級闘争』(光文社)、『階級社会』(講談社)、編著書に『家族と格差の戦後史』(青弓社)など

神子島健
専攻は社会思想史、日本近代文学
著書に『戦場へ征く、戦場から還る』(新曜社)、小沢弘明・三宅芳夫編『移動と革命
ディアスポラたちの世界史』(論創社)、論文に「二重の不在―戦後と3・11後の死者について―」『批評研究』、「戦場の記憶と戦後文学」『中帰連』(全五回)など

3.24.2014

第77回



第77回叙述態研 

日時:4月4日(金)16時から 


場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟506 
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html 
【個人発表】 
渋谷百合絵「宮沢賢治「雪渡り」論―《伝承》の再構築をめざして」 
田口麻奈「堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』論」 

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【発表要旨】 

渋谷百合絵「宮沢賢治「雪渡り」論―《伝承》の再構築をめざして」 


  日本の伝承・民間信仰において、狐は極めて特殊な位置を占めてきた。『日本霊異記』をはじめとする、狐と人間の異類婚と特異な力を持った子供の出生を語る説話や、狐憑き/狐に化かされたといった類の民間伝承や昔話、稲荷神信仰など、ここで改めて確認するまでもないほど、狐は古来、超常現象を説明する論理の根幹に据えられてきた存在であるといってよいだろう。明治以降、狐は次第にその地位から追い落とされていくことになるが、永井荷風「狐」に見られるように都市/近代科学を越えた怪異の残滓として、あるいはそれだけに一層ユートピア的地位を創作の世界で獲得していったとも考えられる。 
  異世界への憧憬を極めて論理的・合理的な文体で描こうとした大正期童話においても狐は格好のモチーフであり、西洋・中国の昔話・童話の再話作品が大勢を占める中、狐が登場する日本の昔話の再話/翻案作品は、『赤い鳥』系統の童話雑誌に数多く発表されている。 
  岩手で独自の創作を行った宮沢賢治の童話にも、狐は重要なモチーフとして繰り返し描かれている。特に「雪渡り」(『愛国婦人』大正10年12月・大正11年1月)は数少ない生前発表作であり、円熟した大正期童話運動と賢治作品との僅かな結節点であるという点において重要な作品であるといえる。 
  本作はこれまで、狐の子どもと人間の子どもの交歓の喜び、その詩的情感の美の描かれた作品と読解されてきた。しかし、本作のなかに織り込まれた伝承世界の狐のイメージや、狐の子ども達が開催する幻燈会が、明治中期から大正期にかけて実際の教育の場で担っていた役割を検討していくと、狐と人間との新たな関係をめぐる差し迫った事情が背後に揺曳していることに気づく。 
  本作は大正期に確立された童話表現を、まさに物語の主意に沿うように生かすことで、狐と人間の友愛の物語という読みに読者を誘導しながらも、その背後に同時代的な文脈や現実的な問題を忍ばせる、特異な作品構造を有している。本発表ではこうした童話表現の効果に留意しつつ、作中に描かれたモチーフの解読作業によって、賢治が確立しようとした新たな《伝承》を解き明かすことを目標としたい。 


田口麻奈「堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』論」 


  堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』(新潮社 
一九六八・九、初出は「文芸」一九六六・一~一九六八・五)は、堀田自身とほぼ同じ出自・境遇に設定された主人公が、富山県・伏木から上京して学生生活を送り、召集令状を受け取るまでを描いたものである。 
  現在、堀田に関しては、時代ごとに発揮された鋭敏な国際感覚と、その素地を用意した上海体験とが注目を集め、その点に高い評価が与えられている。一方、堀田が国際文化振興会の一員として上海に渡る以前、つまり『若き日の詩人たちの肖像』で描かれるところの学生時代に関しては、世界的な動乱に直面する以前の〈芸術至上主義〉的な時代とされ、本作はその時期の堀田のあり方を示す資料として断片的に参照されてきた。または、自伝的小説(従ってモデル小説)としての性格が注目され、戦前の文学青年たちの真摯な青春を活写した群像劇として位置づけられてきた。 
  しかし本作は、そういった同時代を横軸として描くだけでなく、主人公がある一つの思念を中心に問いを深める帰趨を縦軸のひとつとして導入している。それは、本作のタイトルにも掲げられる〈詩人〉のあり方をめぐる問いである。〈冬の皇帝〉(モデルは田村隆一)や〈良き調和の翳〉(モデルは鮎川信夫)の詩に接した際の主人公が、その都度、彼らに及ばないことを自覚し、「詩人は詩人であるにしても、詩をつくるのはあまり向いとらんかもしれん」と自己評価するくだりに端的に表れているように、本作は、詩作の有無や巧拙に関わらず、ある抽象的な価値観を託す形で、主人公の同時代人を〈詩人たち〉と指称しているようだ。 
  本発表では、小説全体のプロットを視野に収めた上で、これまでトータルに考察されてこなかった本作の〈詩人〉論としての射程を導出してみたい。 
  (なお、本作は結構な長編ですが、論の枠組みというよりは、読解の成否について、色々とご意見賜りたく思っております。どうぞよろしくお願いいたします)