第100回叙述態研究会
日時:2023年11月3日(金) 14:30~18:30
場所:明治大学駿河台キャンパス グローバルフロント17階C5会議室
https://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/access.html
【個人発表】
三上桜「吉行淳之介「寝台の舟」論―〈娼婦もの〉執筆時期における「男娼」の問題をめぐって―」
【著者セッション】
堀井一摩『国民国家と不気味なもの ―― 日露戦後文学の〈うち〉なる他者像』(新曜社、2020年)
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【個人発表要旨】
吉行淳之介「寝台の舟」(『文學界』一九五八年十二月号)は、女学校の男性教師である
「私」と、身体は男性であるが性自認は女性である男娼ミサコとの関係性を描いた物語である。この小説が発表された頃、吉行は「驟雨」で芥川賞を受賞してから四年が経ち、娼婦の女性を描いた、いわゆる〈娼婦もの〉と呼ばれる作品群を世に送り出していた。そうした中、当時「寝台の舟」の二か月前に発表された「娼婦の部屋」(『中央公論』)は比較的高い評価を受けたものの、「寝台の舟」は等閑視されていたと言える。
のちの先行研究では、男娼ミサコに対して「不能」でありつつも、その欲望に応えようとする「私」に焦点が当てられ、男性のニヒリズムの超克や美化といった主題が捉えられてきた。しかし、この小説の特異性が、「私」の「不能」の問題以上に、ミサコの性自認の在り方をめぐる複雑な欲望の問題にあることを見落としてはならないだろう。
一九五〇年代後半から一九六〇年頃の日本社会では、身体の手術を伴う「「性転換」に関する記事が週刊誌に掲載され、一種の「性転換ブーム」とも言える状況」(三橋順子)だったとされる。だが、ミサコのような、身体は男性で性自認は女性であるトランスジェンダーについては、必ずしも社会的に理解されていなかった。また当時、「男娼」は週刊誌や新聞記事を通してタブー視され、好奇の眼差しを向けられていた。
本発表では、そのような同時代の「男娼」の表象に目を向けつつ、「寝台の舟」に描かれたミサコの欲望がどのように語られているのかを検討する。そして、吉行の〈娼婦もの〉と同時期に発表されながらも、ほとんど注目されずに埋もれてしまっていた本作を、吉行文学の新たな側面を知らせる作品として位置づけ直したいと考えている。
※お送りいただいた「寝台の舟」のpdfをこのメールに添付しています。
【著者セッション・内容紹介】
https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b506057.html
日露戦争前後から、殉死、暴動などの血なまぐさい事件だけでなく、社会規範をおびやかす〈不気味なもの〉が頻出するようになる。桜井忠温『肉弾』、漱石『心』、大逆事件などをめぐる文学を題材に、国民化の圧力と民衆の反応・反発の力学を活写する。
・従来の国民国家論では見落とされがちだった、民衆・大衆の主体性をさぐる。
・文学が探知した〈不気味なもの〉のなかに、現代にも通じる「徴候」を指摘する。
https://www.shin-yo-sha.co.jp/news/n44384.html
第43回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞
「‥‥このインパクトに充ちた日本近代文学思想史において、「不気味なもの」なるフロイト心理学の術語が書物の枠組みを成しているかに見える。懐かしく根源的なのに、その時代の規範や政治的・社会的抑圧によって隠されてしまったものが、何かのきっかけで無意識の底から現れる。幽霊とか幻とか、曖昧なかたちをとって。それがひとつの定義だろう。ところが、そんなフロイト流から、本書が俎上に載せる「不気味なもの」はどんどん逸脱する。幽霊や幻よりも生々しい。「超不気味なもの」とでも呼びたくなる。たとえば妖怪変化や革命家。規範や抑圧にハッキリと反逆する。あるいは死者たちの無念や怨念。生の欲求を国家に歪められて、素直に発露させられぬうちに死にゆく。そのとき噴出する、ハッキリした思い残しの声が、国家の心胆を寒からしめる。‥‥」片山杜秀氏(慶應義塾大学教授)評より