6.04.2010

第51回


日時:6月4日(金)17時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟306 
〈著者セッション〉坪井秀人×田口麻奈
名古屋大学、日本近現代文化研究センター「JunCture」刊行記念
今回は、名古屋大学から坪井秀人先生をお迎えしての著者セッションとなります。
坪井先生に関しましては、日本比較文学会賞受賞の大部のご著作『声と祝祭』でご存知の方が多いことと思いますが、近年ますます、〈日本文化学〉という学の体系にふさわしい多岐にわたるご関心のもと、斯界の第一線で
問題提起を続けていらっしゃいます。個別の対象に関わる論究はもちろん、文学研究の枠組みやその方法論という、研究者が避けて通れない問題を常に問い直すため、もっとも意欲的な仕事を展開されている研究者のお一人といえます。

今回は、上記のような問題意識を前提とする名古屋大学大学院の機関誌「JunCture」創刊号の企図を受け止めるべく、同誌への関心を起点として、坪井先生の最近のお仕事に共通する現代的な問題を共有する場を作ることが出来ればと考えております。
なお、先生の比較的最近のご単著のうち、最も入手しやすいテキストは、ちくま新書『戦争の記憶をさかのぼる』(2005)です。同書の内容にも触れたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。(田口麻奈)

 

4.02.2010

第50回


日時:4月2日(金)17: 00から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、カルチャー棟美術室1
17:00-〈個人発表〉八幡恵一「言語と思考—モーリス・メルロ=ポンティの「沈黙の
コギト」について」
18:30-〈著者セッション〉藤井貞和×村上克尚
『源氏物語 始源と現在ー付バリケードの中の源氏物語』(岩波現代文庫 2010年2月)
コメンテーター 兵藤裕己

3.05.2010

第49回


日時:3月5日(金)17:30から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟306
発表者:阿部尚史「ペルシャ文学古典復帰運動」の再検討と18世紀後半のイランのイ
メージ:ペルシャ語詩人伝『拝火神殿』の文化史上の位置づけとその分析を中心に」

12.18.2009

第48回


叙述態研+大忘年会
日時:12月18日17:30〜
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター,カルチャー棟美術室
著者セッション:高木信×森田團
『「死の美学化」に抗する—『平家物語』の語り方』(青弓社、2009年4月)

11.06.2009

第47回


日時:11月6日(金)17:00〜
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター, センター棟小研修室
発表者:逆井聡人
タイトル:石川淳「焼跡のイエス」論—闇市の政治的位相と〈少年〉

報告要旨:

本報告は、石川淳の「焼跡のイエス」(『新潮』、昭和二十一年十月号)における〈少年=イエス/クリスト〉とはどのような存在かという解釈上の問題を中心に作品を分析する。「焼跡のイエス」は戦後石川文学における代表作品の一つであり、多くの批評家研究者がこの作品について言及してきた。しかし、先行する研究は〈少年〉の解釈に関して様々な見解を提示しているものの、物語の舞台となる「闇市」に関して「極めて戦後的で混沌とした空間」という一様の把握に留まっており、その政治的・歴史的位相を詳細に検討した上で〈少年〉を捉えるという分析が十分になされていない。

本分析では「闇市」が本当に「戦後的」であり「混沌」とした空間であったか、という検討を出発点としてテクストを読んでいく。また同時代の世相を扱った他の作家による作品と比較し、最終的に敗戦直後の石川淳の諸作品との関係性の中で〈少年〉の意味と「焼跡のイエス」という作品自体の歴史的位置を検討していく。

なお、この報告は報告者が現在執筆中の修士論文を基にしている。




10.02.2009

第46回


日時:10月2日(金)17:00〜
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター棟407
発表者:大澤総
「日本浪曼派のイロニー概念—メディア論的視点を媒介に」

9.04.2009

第45回


日時:9月4日(金)16:30〜
場所:立正大学大崎キャンパス4号館1階ゼミ室F
発表者:鵜戸聡
「ロートレアモンを読むカテブ・ヤシン——(悪)徳の詩学から生命の力へ」
発表者:田口麻奈
「「荒地」1954年の陰翳」


【発表要旨】
鵜戸聡「ロートレアモンを読むカテブ・ヤシン――(悪)徳の詩学から生命の力へ」
 アルジェリアの仏語詩人・劇作家・小説家であるカテブ・ヤシン(Kateb Yacine,
1929-1989)は、現代マグレブにおける最大の作家である。本発表は、そのテクストのイメージ分析を通して、彼の文学に於けるフランス語のはたらきについて論じる試みの一つである。植民者の言語としてのフランス語使用の問題(つまりポストコロニアル的観点から)はすでに論じたことがあるため
、ここではフランス文学との関わり、とくにロートレアモン伯爵ことイジドール・デュカスの『マルドロールの歌』との関連に特化して検討することにする
。
 しかし、作家間の影響関係をさぐる源泉研究をおこなうわけではない。カテブ・ヤシンが生涯にわたってロートレアモンを愛読した、という伝記的接点を口実に、そして切り口にして、ロートレアモンとカテブを併せ読み、もっぱら後者のエクリチュールの特徴を似て非なる前者のそれとの対比によって明らかにしようとするものである。
 怪異や悪徳をうたうロートレアモン的詩学が、カテブに於いていかように美徳に反転し、再生の「力=徳」としてエクリチュールに遍満するのか、それが議論の中心になるだろう。フランス語表現の作家であることは、(翻訳文学も含め)仏文学の蓄積というフランスの「文」の伝統に外部から参入してこれに寄り添い、あるいは破壊を加えつつ書くということにほかならない。そのとき、ことばは単なる道具であることを超えて、世界のマチエールそのものに転化するのだ。

田口麻奈「「荒地」1954年の陰翳」
1953年初から1955年にかけて、『荒地』の鮎川信夫は所謂『死の灰詩集』論争を展開する。その状況下で発表された詩篇「兵士の歌」が、詩に関する鮎川の原理論を当時の主流に向けて批評的に提示したもの
であることは、以前この会で(第21回、2006年6月)発表させて頂いた。1954年はその論争が昂進してゆくさなかであり、鮎川詩論の骨格を形作る重要な評論が書かれている。だが一方で、鮎川の詩において「特
殊なメルヘン調」の詩と評される「小さいマリの歌」や「可愛いいペニイ」などが発表されたのも同年のことである。初出誌である『荒地詩集』1954年版には、この二篇のほか、従軍体験に取材した病院船詩群や戦前の
室内詩篇が再録されており、作風において変化に富む詩群が並べられている点が興味深い。今回の発表では、前述の二篇の考察を中心に、54年版をひとつの指標として「荒地」と鮎川における1954年を考えてみたい。
詩における「私小説性」をテーマとした黒田三郎の評論など(同54年版)も、参照項に入れる予定である。