9.03.2013

第73回


まだまだ暑い日が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
さて、9月きむすぽのお知らせをお送りいたします。
今回も参加しやすい18時開始となっております。
ぜひ皆さまお誘い合わせの上、ご参加ください。

73回叙述態研
日時:96日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟414教室
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html
【個人発表】
村上克尚「戦後家庭の失調――小島信夫「馬」の政治性について」
村上陽子「又吉栄喜「ギンネム屋敷」試論」

***
【発表要旨】

村上克尚「戦後家庭の失調――小島信夫「馬」の政治性について」

小島信夫は、五〇年代半ばに家庭の問題への関心を表わし、「第三の新人」という範疇に分類されてきた。しかし、小島の家庭への関心は、政治的な領域からの撤退を示すのではなく、むしろ家庭の領域と政治の領域との不可分性の意識に支えられている。「馬」(当初は「家」と「馬」として発表、共に一九五四・八)という奇妙な家庭小説は、戦後に民主化されたと言われる家庭が、実際には男性を社会に奉仕させる一方、女性を家に囲い込むという仕方で、なお「主人」の論理を保存していることを示す。この「主人」の論理は、同時代の国家の「主権」をめぐる軍事的な論理とも共犯関係にある。登場人物の「僕」もトキ子も、このような「主人」=「主権」の論理に違和感を持っているが、家庭は親密な愛
情の場でなければならないという思い込みから、この論理に従属している。しかし、愛情の証として始められた家の増築は、まるで二人の潜在的な欲望を反映するかのように、馬という異質な他者を呼び込んでしまう。この馬は、「主人」の威容を支えるための「動物」であったにもかかわらず、そのような機能に還元されない単独的な生を生きることで、「僕」とトキ子の家庭を次第に失調させていく。馬に敗北する「僕」の姿は、異質な他者を排斥する「主人」の論理から、異質な他者を迎え入れる歓待の論理への移行を象徴しているように思える。そして、もしこのような読みが可能なのだとしたら、小島の小説に、父=治者にならねばならないという倫理を読み取ろうとする江藤淳の『成熟と喪失』が提示し
たパラダイムは大きく修正されねばならないだろう。

*************
村上陽子「又吉栄喜「ギンネム屋敷」試論」

 一九五三年の沖縄を舞台とする又吉栄喜「ギンネム屋敷」(一九八〇年)は、沖縄戦の中での朝鮮人軍夫や「従軍慰安婦」を描いた希有な作品である。沖縄人、朝鮮人、米軍人、二世兵士など、さまざまな立場の人間が交錯するこの作品は、第四回すばる文学賞を受賞したものの、わかりにくいという批判を受けた。そのわかりにくさは沖縄という土地において朝鮮人をめぐる記憶が正当に聞き取られ、記憶されることの不可能性と強く結び付いていると言える。

物語の枠を揺るがし、こぼれ落ちる声や記憶を「ギンネム屋敷」はどのように描こうとしているのか。本報告では、抑圧され、忘却されてきた〈他者〉としての朝鮮人の記憶が召還され、語られる過程において、新たに発動されてしまう暴力や聞き捨てられていく声について考えていきたい。

村上陽子(東京大学大学院)

6.24.2013

第72回

叙述態研(きむすぽ会)のみなさま

梅雨空が続く毎日、皆さまいかがお過ごしでしょうか。さて、7月きむすぽのお知らせをお送りいたします。皆さまの参加を心よりお待ちしております。なお、個人発表、著者セッションの企画は随時受け付けておりますので、運営まで気軽にご相談ください。

*********************************

第72回叙述態研  日時:7月5日(金)18時から  場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟502号室  (小田急線参宮橋駅下車 徒歩約7分
 <http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html>)
  

【著者セッション】  


神子島健『戦場へ征く、戦場から還る――火野葦平、石川達三、榊山潤の描いた兵士たち』(新曜社、2012年)  

書評者:相川拓也(東京大学大学院)、野上元(筑波大学)  
司会:村上克尚


【企画趣旨】今回の著者セッションでは、神子島健さん(東京大学助教)の『戦場へ征く、戦場から還る――火野葦平、石川達三、榊山潤の描いた兵士たち』を取り上げます。本書は、火野葦平、石川達三、榊山潤という三人の作家の小説に社会学的な見地からアプローチし、出征や帰還、復員というプロセスに伴う、軍隊の規範、習慣と軍隊外のそれとのあいだの葛藤や揺らぎについて考察した重厚な著作です。本書の「序章」がイラク戦争のインタビューで始まることからも明らかなように、著者の問題意識は、「戦後」という自動化した空間の中で、戦争を「遠い世界のごときもの」として感じ(させられ)てしまう「今・ここ」の問い直しに端を発しています。その上で、著者の前に、研究対象として、小説作品が浮上してきたのは重要ではないかと思います。「結論」では、小説からは、「それぞれの作者の戦争に対するスタンスや意図には収まりきらない戦場の様相や、帰還兵、復員兵が帰国後に持ち込む戦場の痕跡や、それを受け容れる側の人々の思い」を読み取ることができる、と述べられています。戦場を決して単純化することなく、複層的な諸相に注目しながら、自分なりに引き受け直していくこと。このような著者の姿勢に敬意を払いつつ、さらに深く、戦場の複層性を掘り起こしていくきっかけが、セッションの議論を通じて見えてくればと思います。
今回は、お二人の方にコメンテーターをお願いしています。一人目は、東京大学大学院博士課程の相川拓也さんです。相川さんは、昨年八月にもコメンテーターを務めてくださいました。一九三〇~四〇年代前半の植民地都市・京城に注目しつつ、文学表現を通じて、当時の社会や人々の経験を探ることを研究テーマとなさっています。最近のご論文には、「同化の夢語り――蔡萬植「痴叔」のアイロニー」(『言語情報科学 11号』、2013年)があります。二人目は、筑波大学の野上元さんです。ご専門は歴史社会学、社会情報学で、ご著書に『戦争体験の社会学――「兵士」という文体』(弘文堂、2006年)などがあります。現在は、戦争社会学研究会の中心メンバーとしてもご活躍されています。お二人のコメントと神子島さんの応答の後、全体での討論に移れればと思っています。

5.24.2013

第71回

第71回叙述態研
日時:6月7日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟509教室
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html



【個人発表】
八幡恵一「現象学における言語の理論―メルロ=ポンティとレヴィナス」
逆井聡人「金達寿「八・一五以後」における「異郷」の空間表象」


***
現象学における言語の理論―メルロ=ポンティとレヴィナス

「言語」は20世紀の哲学においてもっとも主導的な役割を果たした主題のひとつであ
り、さまざまな領域で多様なアプローチからの分析が行われた。現象学もその例外で
はなく、創始者フッサールはすでに『論理学研究』(1900/1901年)において、心理
学主義への苛烈な批判を展開しつつ、彼のいう「純粋論理学」の基礎づけを試みる一
方で、言語の意味や認識の構造に関する独特の考察を行った。「意味付与
(Sinngebung)」という発想や「思考は言語に先立つ」という確信によって支えられ
たフッサールの理論は、しかし後の現象学者の批判を招く。ここではとくにメルロ=
ポンティとレヴィナスという二人のフランスの現象学者を取り上げ、彼らがフッサー
ルの言語哲学にどのように―批判的に―応答し、そしてそれに対していかなる独自の
理論を構築したのかを検討する。この二人が言語を論じる仕方は本質的な部分で多く
の呼応をみせつつ、しかしやはり決定的に分かたれている。その近さと隔たりは、彼
らが「意味(sens)」という概念についてそれぞれもっていた固有の考え方を明らか
にすることでよりはっきりと際立つことになる。互いに対照的な彼ら二人の理論は、
言語がもつ可能性の二つの極を指し示しており、高度に抽象的な思想ながら、現実的
な言語使用を考える上でも示唆に富むものと思われる。

***

金達寿「八・一五以後」における「異郷」の空間表象

 本発表は敗戦直後日本の空間のイメージを、金達寿の戦後初期作品を通して検討する試みである。金達寿は祖国回復の希求を描き、在日朝鮮人文学の嚆矢である作家として知られている。しかしその金達寿が日本敗戦を機に発表した作品で、同時代の日本の様子を描いている作品が論じられることは稀である。こうした作品を検討する事は、戦後日本の領土イメージを多層化することに繋がると考える。発表では、1947年10月に雑誌『新日本文学』で発表された「八・一五以後」という作品を中心に、祖国への帰路という、首都圏の都市から玄海灘を渡るために下関や博多へ向う道のりと、その帰郷の挫折、そして首都圏へ再び戻るという登場人物たちの行動の動線に注目する。そのことによって、敗戦直後の日本という領土の不確定さと、またその内部に均一化されない民族の「帰郷」という移動のダイナミズムがあったことを確認する。
 こうした不安定で常に内部に移動を孕む空間は、敗戦直後の都市に現れた社会現象の一つである闇市という存在と強く共鳴する。この闇市は従来の戦後の都市文化を扱った研究において、復興の大衆的活力の象徴として捉えられることが多い。しかし闇市にはそうした一塊の「民衆」は存在しなかった。闇市は、日本人の戦災者や復員兵だけでなく、在日外国人たちによっても構成されており、その後の在日外国人の認識のされ方を強く縛り付けるものでもあった。こうした闇市の実態は発表で扱う金達寿の作品にも登場する。
 1945年8月15日を境に帰郷を願いながら玄海灘に向う登場人物たちにとって、それまで住んでいた街は去るべき土地であり、それは既に過渡的な空間である。しかしながら、最終的に玄海灘を渡れずに、元の住居地に戻ってきてしまう彼らは、その後の生活をその臨時性の中に留めざるを得なくなる。彼らにとって戦後日本という空間は復興の舞台ではなく、「異郷」であり続ける。こうした「異郷」としての空間認識が闇市の臨時性と強く結びつき、金達寿の短編作品の背景を作り出す。これまでの多くの研究が敗戦直後の都市空間を戦後が始まる場所としての捉えてきたことに対して、それとは異なる都市像を金達寿の作品の中から提示することが本発表の目的である。

4.18.2013

第4回 心のアート展――それぞれの感性との出会い

以前、著者セッションで来てくださった荒井裕樹さんの主催するイベントです。
もしお時間がありましたら、ぜひ足をお運びください。

****
「第4回 心のアート展――それぞれの感性との出会い」

【日時】2013年4月24日(水)〜29日(月・祝) 10:00〜20:00(最終日は18:00
まで)
【会場】東京芸術劇場5階・ギャラリー1(池袋駅西口より徒歩2分、地下通路2b出
口直結)
※入場無料

今回は「特別展示」として、フランスから「アトリエ・ノン・フェール」の方々をお
招きしています。
「アトリエ・ノン・フェール」とは、パリ郊外の精神科病院メゾン・ブランシェで活
動をつづけてきたアーティスト集団で、現在はパリの街中を活動の舞台にしていま
す。
EU圏ではかなり頻繁に展示会が開かれ注目をあつめていますが、日本では今回はじめ
て実作品が展示されることになります。

ほかにも、松沢病院に通院しながら描き続けた孤高の画家「櫻井陽司」の作品や、毎
回本展にご協力くださっている漫画家の吾妻ひでおさんの作品も紹介されます。
特に櫻井氏の作品は、近年画壇内でも急速に評価が高まってきており、このような形
での一般公開は、今後ますます貴重になるかと思います。

もちろん、アート展のメインである公募作品(東精協加盟病院に入院・通院される
方々の作品)にも大変な力作がそろっており、また出展者たちのギャラリー・トーク
や座談会なども企画されております。

「入場無料」「出入場自由」で開催しております。近くにお寄りの際は、お気軽にお
立ち寄りください。



[第4回 心のアート展]http://www.toseikyo.or.jp/art/index.html


 

3.21.2013

第70回

日時:4月5日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、スポーツ棟第一研修室
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html
【著者セッション】
藤井貞和『文法的詩学』(笠間書院、2012年)
書評者:鴻野知暁、坂田美奈子、藤田護

今回は、昨年刊行されました、藤井先生の『文法的詩学』を集中的に議論する会となります。
ぜひ皆さまお誘い合わせの上、ご参加ください。
(5月きむすぽは開催日が祝日と重なるため、お休みの予定です)


[企画趣旨]
2013年度最初のきむすぽは、昨秋、詩論集『人類の詩』(思潮社)と同時刊行された、藤井貞和『文法的詩学』を受け止めるところから始まります。
「テクストを支える、言語の底を浚渫することなくして、物語の読解も、うたの享受もなかろうと思える」――これは本書の結びの章に見える一節ですが、今回メインコメンテーターを務めて下さるのは、そのような「テクストを支える言語の底」への深い問題意識を、これまでも度々この会で開示して下さった鴻野知暁さん、坂田美奈子さん、藤田護さんです。
さかのぼってみますと、ちょうど2年前にあたる2011年度4月きむすぽにて、本書の前史を形作る『日本語と時間』(岩波書店2010.12)の著者セッションが行われ、藤田護さんから、坂部恵氏の仕事を傍らに眺めつつ、『日本語と時間』を〈古文読みの理論〉として意味づける詳細なコメントが提示されました。
また同じ日に、個人発表枠では鴻野知暁さんが、本書でも大きな存在感を放つ大野晋氏の説と格闘しながら、係り結びの〈起源〉を考察されました。
〈時の助動辞〉を中心としたこの前著から、さらに包括的な原理論となった本書に、お二人があらためて対峙する今回のきむすぽは、2年前の著作と議論をご記憶の方にとっても、また本書ではじめて議論に接する方にとっても、たいへん刺戟的な場になることと存じます。
また、昨年の6月きむすぽにて、歴史学の方法論的葛藤の先に、アイヌ口承文学を新たな地平に位置づけようとする坂田美奈子さんを囲んでセッションを開催したことは記憶に新しいところですが、本書の洞察に欠かすことの出来ないアイヌのことばを専門とする坂田さんが、さらに深く議論を掘り下げる端緒を与えて下さることと思います。
本書にとって大事な成立要件を語る著者の言葉に触れて、企画説明に代えさせて頂けるならば、本書は、震災後私たちの多くが突き当たらざるを得なかった「ことばは無力か?」という問いに深く答えるために纏められました。
「われわれのうちなる、けっして無力であることのできない部位」を明らかにする言語理論として差し出された本書をめぐって、著者の藤井先生と、皆さまと、さまざまに議論を交わせるのを楽しみに致しております。
どうぞ、ふるってご参加ください!


「文法的詩学」
「物語を読む、うたに心を託す」ために必要な言語理論を案出する書。

「時枝、佐久間、三上、松下、三矢、そして折口、山田、大野、小松光三、あるいはチョムスキー......絢爛たる文法学説の近代に抗して、機能語群(助動辞、助辞)の連関構造を発見するまでの道程を、全22章(プラス終章、附一、附二)によって歩き通す」

物語や詩歌を読むことと、言語学のさまざまな学説たちとのあいだで本書は生まれた。
古典語界の言語を当時の現代語として探究する。

【「物語を読む、うたに心を託す」という、私の研究の道のりのなかばで、物語を解読するために、また、うたに遊弋するために、必要な言語理論を案出したい。
 教室では、既成の文法―学校文法を代表とする―を利用しながら、そして、それらが欠陥品であることを、だれもが知っていて、それらへの修復につぐ修復をみんなで試みながら、なんとか凌ぎ凌ぎして、物語やうたを読み、かつ味わい続ける。
 それに飽き足らなかった自分だと思う。いつしか、文法理論の藪へ迷い込んで、「おまえは何をしているのか」と、友人たちの訝しみの視線が、背なかに突き刺さる歳月、それでも言語じたいへの関心(夢想のような)を抱き続けてきた
 物語にしろ、うたにしろ、無数の文の集合であり、言い換えれば、テクストであって、それらが自然言語の在り方だとすると、文学だけの視野では足りないような気がする。言語活動じたいは、文学をはるかに超える規模での、人間的行為の中心部近くにある、複雑な精神の集積からなる。......はじめにより】


12.07.2012

第69回


12月7日(金)
【個人発表】
黄ジュンリャン「戦時上海における家庭、資本と旅をする女たち—林京子『ミッシェルの口紅』を中心に—」

【個人発表 要旨】
黄ジュンリャン「戦時上海における家庭、資本と旅をする女たち―林京子『ミッシェルの口紅』を中心に―」

<上海=戦争>と<ナガサキ=原爆>という二つのできごとを原点にして語ってきた林京子の過去にたいする記憶が、ただ時の再生ではなく、あらためて構築された「形あるもの」だということがよく強調される。今までの先行研究では林京子文学と歴史を結成する軸として<ナガサキ=原爆>のほうを中心に見るものは多いと思われるが、本発表ではむしろ彼女のいわゆる「上海もの」の分析を通して、林京子文学の違う側面を描き出すことを試みたい。彼女の上海ものはいずれも1980年代以降に書かれたものであるため、敗戦・被爆や戦後日本経済の高度成長、沖縄のアメリカから日本への返還、日中国交回復など諸々のできごとにより忘却され、上書きされ、あるいは遮断された記憶は、小説のテクストと上海在住当時の
歴史的コンテクストの間にあるさまざまな言語的空白から追跡できると思われる。本発表では、そのような空白を歴史調査の引用で埋めながら、女たちが表舞台に立ちあがり活躍する作品として『ミッシェルの口紅』を扱ってきた先行研究に反論を試みつつ、同小説を読みなおしたいと思う。

本発表では、1938年から1945年の虹口租界で起きた暴力的な場面が一つ一つ分解され、戦時上海における女性のさまざまな不在(アブセンス)と、その根本的な不在(アブセンス)から生み出されるさまざまな(不)可視についての議論が行われる。発表者はまず、夫の後について外地に移住しディアスポラになった女性たちの性を、植民地主義というコンテクストのなかで、メタレヴェルにおいて考察を試みる。彼女たちの、戦線と銃後の両方における不在(アブセンス)を示唆し、それは男の現前(プレゼンス)に上書きされ、男の性に収斂した結果だと主張する。次には、家庭という枠組みに焦点を移し、同時に第二次上海事変後の上海におけるイギリスと日本の競争関係や、日本軍国政府と大手商社や銀行の海外進出との緊
密な連結をも紹介しながら、資本をもつ中国人女性の男性中心的な政治舞台における特別な現前(プレゼンス)に注目する。最後には、家庭という枠組みの外側にあるところ、例えば職場や、あるいは「職場」というものさえ持てずに周縁的なところで苦闘している男や女の事例を見てみる。以上の議論で、「被害者」や「加害者」という図式から脱出し、戦時上海にいる女性という主体(同時に男性も)が呈する性の不在(アブセンス)や現前(プレゼンス)、屈辱や忠誠などの側面を重層的な記憶と記述を通して表現しようとする林京子の「上海もの」がもつ、彼女の原爆文学とは違った風格がすこし見えてきたのではないかと思われる。

【著者セッション】
高榮蘭『「戦後」というイデオロギ——歴史/記憶/文化』(藤原書店、2010年)
コメンテーター:逆井聡人 司会:岩川ありさ


【著者セッション 企画趣旨】
 1990年代以降、ひとつのできごとにはいくつもの語り方があり、歴史が編成されると
き、それぞれの立ち位置(ポジショナリティ)からしか物事を見ることはできないとい
うことが明らかになった。本書の「はじめに」にもあるように、この本は「戦後」とい
う意味内容の「空白性」に注目し、その空白が充填される際の言説的力学の働き方、つ
まり、「記憶の再編」のなされ方について分析している。戦前・戦中・戦後のそれぞれ
の時期に書かれたテクストが1945年以後如何に評価されてきたか、またその評価の際に
前提とされていた評価者の視座としての「戦後」がどんなものであったかが問題視され
ている。

 それでは「戦後というイデオロギー」とは何か。それはある特定の意味内容をさす言
葉ではなく、「戦後」という言葉が使われる際のその時その時の前提にされる「枠組」
自体である。その枠組は、それぞれの研究者や批評家の立場と同時代の言説状況に沿っ
て具体的に検討されている。ただ、それらの枠組に通底するのは「日本/韓国」という
国民国家を基準としたナショナルな線引きであったり、「日本民族/朝鮮民族」という
エスニシティを前提としていることだろう。二つの「国家」・二つの「民族」をソリッ
ドなもの(確固たる塊)として前提にすることが「戦後」という言葉を底支えしている
概念と言えるかもしれない。本書が、「ポストコロニアルの手法をとらない」と注意書
きしている理由はここにある。すなわち二つの別個の「国家」や「民族」を前提に、「
支配/被支配」「抑圧/抵抗」という二項対立的な図式を作り出してしまうことになり
がちな「ポストコロニアル」的視線を避けるということである。

 以上のことを踏まえて、本書はそれぞれのテクストが生成される場を捉えようとして
いる。そうした生成(創造)の場では、様々なアイデンティティーと同時代に特定の意
味を持った言葉たちが交錯している。それらが交錯する接点を綿密に捉えていくことに
よって、従来の固定化された言説(または神話ともいえるかもしれないもの)を脱構築
していく。そしてその脱構築が最終的に作用するのは、著者を含めた読者の「いま・こ
こ」であろう。つまり、本書に接した際に読者としてのわたしたちは、自らが今立って
いる位置、前提としている概念を改めて問いなおさなくてはならない。私たちは「歴史
」をどう見ているのか、「戦後」というイデオロギーに捉われているのだろうか、とい
う問いが目前に現れる。まさしく、現在進行形の問題として「歴史」を捉え、「歴史」
に捉えられている〈わたし〉の立ち位置(ポジショナリティ)が問うてくるのが本書だ
。今回の書評セッションではそのような自らの位置まで含めて議論できればと願ってい
る。

・本書の著者である高榮蘭(こう・よんらん)さんは、1968年、韓国・光州生まれ。19
94年に日本へ。2003年日本大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現
在、日本大学文理学部准教授。専門は日本近代文学。

・書評者の逆井聡人(さかさい・あきと)さんは、東京大学大学院総合文化研究科言語
情報科学専攻博士課程在籍。戦後の闇市や焼け跡の表象研究をはじめ、近現代日本文学
を専攻なさっています。今回は、近年の国外の日本近代文学研究を参照しつつ、東アジ
アというコンテクストにおいて日本語で書かれたテクストを読んでみることの重要性に
ついて話してくださいます。

*この趣旨文は、書評者である逆井さんのご協力をえて作成しましたことを書き添えま
す。


11.02.2012

第68回


11月2日(金) 
【個人発表】
茂木謙之介「個別を語るということ——関東大震災後鏡花テクストにおける〈怪異〉表現をめぐって」

【個人発表 要旨】
個別を語るということ――関東大震災後鏡花テクストにおける〈怪異〉表現をめぐって
茂木謙之介

 所謂「3・11」以降、文学研究はなぜ執拗にその〈出来事〉について言及し続けるのであろうか。ポストモダン議論が盛んであった際に前景化していたような、〈遅れ〉に意味を見出し、徹底して問題の前に立ち止まる態度を文学研究は忘却してしまったのだろうか。藤井貞和氏は1989年を「ポストモダンの終焉」(「歴史叙述のテクスト論的素描」『立正大学人文学研究所年報別冊第18号』2012年3月)と位置づけたが、それ以降の文学研究は果たしてアクチュアリティを追求することに対して相対的であっただろうか。
 本発表では関東大震災前、直後、そしてその後の泉鏡花のテクスト群を視野に入れ、これまでの鏡花研究でしばしば指摘されてきた〈怪異〉に注目し、分析を試みることを通して、巨大な破壊と喪失を語ることは如何にして不/可能であるかを考えたい。
 先行論では従来、震災を経ることによって鏡花テクストにいかなる変化が出来したか(もしくはしなかったか)が論じられてきた。本発表では先行論の論点となっているような単純な変化/不変化に収斂させるのではなく、複数のテクストを横断し、内在する問題に注目することで鏡花のテクスト世界にとって震災とは何であったかを問いたい。分析にあたっては、関東大震災に関わる鏡花テクストにおいて転換点として論者が位置付けるテクスト「二、三羽―十二、三羽」(大正12年)、「露宿」(大正12年)、「傘」(大正13年)(いずれも『鏡花全集』)を中心的に扱う。
 発表に当たっては所謂「3・11」以降の言説空間において、論者が問題視する以下の三点にも言及を試みたい。一つは過去の出来事のナイーブな召喚である。たとえば昨年3月の東日本大震災の如き〈出来事〉に出会ったとき、過去の出来事を類例とし、それを対象化する欲望は「アクチュアリティ」を要請される現在の人文学に在ってはある種不可避の事柄であるかもしれない。しかしその召喚する出来事を選択するに当たっては、その正当性を問う作業が当然必要なものとなってくる。第二点はまた、震災と鏡花テクストをめぐる先行論にも看取されるような、震災を画期として物語る欲望であり、またそれと密接な問題であるが、第三点は当事者の語り、もしくは当事者に寄り添った語りのもつ権力性・暴力性で
ある。この二点については昨年の日本文学協会シンポジウムとそれに寄稿した論者の印象記(拙稿「拡散する〈リアリティ〉(大会二日目印象記)」『日本文学』2012年4月号、日本文学協会)が詳しい為、ここでの説明は割愛するが、発表ではこれらの問題に踏み込むことをも目指したい。


【著者セッション】
仁平政人『川端康成の方法——二〇世紀モダニズムと「日本」言説の構成』(東北大学出版会、2011年)
コメンテーター:平井裕香  司会:村上克尚

【著者セッション 企画趣旨】
 今回の著者セッションでは、仁平政人さん(弘前大学)の『川端康成の方法――二〇世紀モダニズムと「日本」言説の構成』を取り上げます。
 本書は、新感覚派として出発し、後に日本回帰を果たした作家と文学史的に位置づけられることの多い川端康成を、詳細なテクスト分析という研究方法を通じて、戦前戦後と一貫したモダニズムの作家として位置づけ直そうとする刺激的な著作です。
 本書の最も新しい主張は、モダニズムとは言葉と実在の切断の意識を出発点として「西洋」や「近代」を問い直そうとした文学運動であり、川端の「日本」や「東洋」に関する言説は、そのようなモダニズム運動の世界同時性の中で改めて論じ直される必要があるという主張ではないかと思います。この意味で、本書は「日本」という特殊性のなかに閉じ込められ、窒息の憂き目にあったかに見える川端のテクスト群を、新しい多様なコンテクストに接続していくための重要な第一歩を記すものと言えるだろうと思います。
 今回は、川端のテクストをジェンダーの観点から読み直そうとされている平井裕香さん(東京大学・修士課程)にコメンテーターをお願いしています。平井さんは卒業論文では『雪国』を、修士論文では『千羽鶴』を扱いながら、川端テクストの新しい可能性を提示することを目指されています。平井さんのコメント、仁平さんの応答の後、全体での討論に移れればと思っています。
 なお、今回の企画実現にあたっては、個人発表を担当されている茂木謙之介さんにご尽力を頂きました。この場をお借りして、心よりお礼を申し上げます。


2012年度 今後の予定--------

第67回 12月7日(金) 
【個人発表】
黄ジュンリャン
【著者セッション】
高榮蘭『「戦後」というイデオロギ――歴史/記憶/文化』(藤原書店、2010年)
コメンテーター:逆井聡人
司会:岩川ありさ