5.17.2023

第98回


 会員の田口麻奈さんが解説をお書きになった『ぼくたちの未来のために』復刻版の刊行を記念してシンポジウムが開かれることになりました。

田口さんのご希望もあり、こちらを第98回きむすぽとしたうえで、今年度より徐々に研究会を再開できればと計画しています。

皆さまのご参加を心よりお待ちしています。


なお、復刻版の本体は以下ですが、こちらは高価なため、主に図書館などで購入リクエストをなさってご覧ください。

https://kohakubooks.com/reprint/modern-literature/bokutachi/


田口さんの解説は以下の「別冊」に収録されています。よろしければ、こちらをお求めください。

https://onl.sc/NkMyW6H


当日の詳細は以下のとおりです。対面、オンライン併用です。


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「ぼくたちの未来のために」復刻版記念シンポジウム/第98回叙述態研究会


日時:2023年5月19日(金) 16:30~19:00

場所:東京大学 駒場キャンパス 18号館4階コラボレーションルーム4(Zoom併用)


基調報告:田口麻奈(明治大学准教授)

コメンテーター:川本隆史(東京大学、東北大学名誉教授)、山本捷馬(琥珀書房代表)

ゲストコメンテーター:花崎皋平(詩人、哲学者)※Zoom参加

ディスカッサント:逆井聡人(東京大学准教授)

総合司会:乗木大朗(明治大学大学院D3)


オンライン参加の場合には、以下になります。

9.02.2021

第97回

叙述態研究会(きむすぽ)の皆さま

大変ご無沙汰しております。
コロナ感染の終息が見通せない状況ではありますが、皆さまお変わりないでしょうか。
昨年一年はお休みをいただきましたが、Zoomを用いて、きむすぽを再開できる見込みになりましたので、ご案内を差し上げます。

第97回 叙述態研究会
日時:9月3日(金)14時~


【著者セッション】
高木信『亡霊たちの中世――引用・語り・憑在』(水声社、2020年)
(今回はコメンテーターは定めずに、全員で自由に議論したいと思います)



http://www.suiseisha.net/blog/?p=12847

〈亡霊〉はそこにいる――
自己と他者の境界を攪乱する「語り」(ナラティヴ)に潜む亡霊、時間と空間を混線させる「間テクスト性」(インターテクスチュアリティ)に潜む亡霊――
主体・意味・記号の一義性が、亡霊に取り憑かれたときに消滅する。
『源氏物語』『平家物語』をはじめとする日本古典の数々を緻密に読み解き、テクストにまったく新しい時空と意味を導き入れる〈亡霊論的転回〉の試み。

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Zoomでの参加方法など、不明なことがございましたらいつでもお問い合わせください。
皆さまとお会いできるのを楽しみにしております。

村上克尚

11.25.2019

第96回

第96回 叙述態研究会

日時:2019年12月14日(土)15時
場所:東大駒場キャンパス14号館706会議室
(前回とは違う建物になりますのでご注意ください。また、土曜のため自動ドアが開きません。当日遅れて参加される方は、jojutsutai_kimusupo+owners@googlegroups.comまでご連絡ください。)




【共同討議】
金ヨンロン・尾崎名津子・十重田裕一編『 「言論統制」の近代を問いなおす 検閲が文学と出版にもたらしたもの』(花鳥社、2019年9月)
参加予定執筆者:金ヨンロン、逆井聡人、村山龍

https://kachosha.com/books90983211/

いま、検閲について考える意義はどこにあるのか。

2000年代以降、新資料の発見が続き研究環境は劇的な変化をとげている。
戦前から占領期にかけて、検閲する側はどのように行い、受ける側はどう乗り越えようとしたのか。
検閲のプロセスを丁寧にたどることで、両者を対立的に捉える従来の図式を解体し、
さまざまな立場の思惑が複雑に絡みあう実態を暴く!

10.12.2019

第95回


叙述態研究会(きむすぽ)の皆さま

 

大変ご無沙汰しております。

前回の木村さんの『その後の震災後文学論』の回から一年以上空いてしまいましたが、ようやくようやく研究会を再開できる運びとなりました。

 

今回は、本研究会を牽引してきてくださった田口麻奈さんの『〈空白〉の根底――鮎川信夫と日本戦後詩』を取り上げます。

すでに各所で話題沸騰の本ですが、この研究会で田口さんのご本を取り上げることを心待ちにしていた方も大勢いらっしゃることと存じます。

皆さまと議論できますことを、心より楽しみにしております。

 

なお、曜日、時間、会場など、従来とは異なっておりますので、十分ご確認のうえご参集ください。

 

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95回 叙述態研究会

 

日時:1019日(土)15時〜18

場所:東大駒場キャンパス18号館4階 コラボレーションルーム3
 

 

【著者セッション】

田口麻奈『〈空白〉の根底――鮎川信夫と日本戦後詩』(思潮社、20192月)

コメンテーター:逆井聡人(東京外国語大学)
 

ディスカッサント:藤井貞和 


最新の鮎川信夫研究

 

鮎川は詩にとって最も本質的な要素を、それが「存在しなかったかもしれない」言葉であるという点に認めようとしている。「存在したかもしれない」と考えることで「空白」を言語的に存在させようとした鮎川にとって、「存在しなかったかもしれない」言葉を創生するという行為のうちにこそ、死者でなく生者と経験を共有するための方途が見出されていただろう。

(「「死んだ男」論」)

 

戦後現代詩の始まりの光景を大胆に更新する本格的鮎川信夫研究。最新資料をもとに、戦後の詩と詩的磁場の批評的達成を現代に問い直す。全集未収録詩篇をはじめ、新発見の書簡など貴重資料を収載。

 

7.03.2018

第94回


7月きむすぽのお知らせです。
今回は、木村朗子さんの『その後の震災後文学論』(青土社、2018年1月)の書評会を開催いたします。
前作『震災後文学論 あたらしい日本文学のために』の書評会は、2013年12月でしたが、熱のこもった議論になったことを昨日のことのように思い出します。
皆さまどうぞふるってご参加ください。

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第94回 叙述態研

日時:7月6日(金)18時30分〜20:30
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟302
【著者セッション】

木村朗子『その後の震災後文学論』(青土社、2018年1月)
コメンテーター:加島正浩(名古屋大学大学院)

「その後の震災後文学論」の画像検索結果

◆『その後の震災後文学論』紹介(青土社HPより)
不安、崇高、憑在論(オントロジー)で読み解く、未来への文学論。
すぎゆく日常のなかで、わたしたちは、震災の何を記憶し、そして何を忘れてしまったのか――。あの日に更新することを余儀なくされた「読み」と「批評」と真摯に向き合い、これからの文学の地平を見通す。


問い合わせ:a.sakasai@tufs.ac.jp(逆井聡人)
◆本研究集会はJSPS科研費・JP18K12280の助成を受けています◆

4.16.2018

第93回

ご無沙汰しております。
新年度も始まりましたが、皆さまご壮健でご活躍のこととお喜び申し上げます。さて、また少し間が空いてしまいましたが、5月よりきむすぽを再開できればと思います。 
今回は、金ヨンロンさんの待望のご単著『小説と〈歴史的時間〉――井伏鱒二・中野重治・小林多喜二・太宰治』(世織書房)が刊行されましたので、こちらの書評会を開催したいと思います。
皆さまどうぞふるってご参加ください。

***

第93回 叙述態研

日時:5月11日(金)18時30分から
★今回は開始時間が30分遅くなっていますのでご注意ください。

場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟301号室

【著者セッション】 
金ヨンロン『小説と〈歴史的時間〉――井伏鱒二・中野重治・小林多喜二・太宰治』(世織書房、2018年2月)

コメンテーター:金子明雄(立教大学文学部教授)

◆『小説と〈歴史的時間〉』紹介(世織書房HPより)
小説の批評性は「小説に何が描かれていないのか」にある。
四人の作者――井伏鱒二×中野重治×小林多喜二×太宰治――を列する居心地の悪さに 近代文学研究という制度の枠、その政治性を気鋭の研究者が問い直す。


序 章
小説、時間、歴史


〈歴史的時間〉を召喚する〈循環的時間〉

第1章
小説が書き直される間井伏鱒二「幽閉」(1923)から「山椒魚」(1930)への改稿問題を中心に

第2章
「私」を拘束する時間井伏鱒二「谷間」(1929)を中心に

第3章
持続可能な抵抗が模索される時間小林多喜二「蟹工船」(1929)と井伏鱒二「炭鉱地帯病院――その訪問記」(1929)を中心に

第4章
アレゴリーを読む時間井伏鱒二「洪水前後」(1932)を中心に


小説の空所と〈歴史的時間〉

第5章
××
を書く、読む時間小林多喜二『党生活者』(1933

第6章
小説の書けぬ時間中野重治「小説の書けぬ小説家」(1936)を中心に

第7章
疑惑を生み出す再読の時間太宰治『新ハムレツト』(1941)論

第8章
占領地を流れる時間井伏鱒二「花の町」(1942)を中心に


〈断絶的時間〉に対抗する〈連続的時間〉

第9章
〈断絶〉と〈連続〉のせめぎ合い太宰治『パンドラの匣』(19451946)論

10
語ることが「嘘」になる時間太宰治「嘘」(1946)論

11
いま、「少しもわからない」小説太宰治「女神」(1947)を中心に

12
革命の可能性が問われる時間太宰治『冬の花火』(1946)から『斜陽』(1947)へ

終 章
〈歴史的時間〉の獲得としての読書

11.17.2017

第92回

***
第92回 叙述態研
日時:12月1日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター 教室未定(※決定次第お知らせします)

【著者セッション】
村上克尚『動物の声、他者の声――日本戦後文学の倫理』(新曜社、2017年9月)
コメンテーター:友常勉(東京外国語大学国際日本学研究院教授)

今回は古参メンバーの村上克尚さんの待望の単著、
動物の声、他者の声』(新曜社)の書評企画です!
同書の刊行は、戦後文学研究にとって決定的な一歩です。
どうぞふるってご参加ください。

◆「動物」とは何か、戦後文学の「倫理」を問う(新曜社HPより) 七〇年前の「大東亜」を呼号した戦争は自国はもとより東アジアと太平洋地域に多大の殺戮・破壊をもたらしました。その反省から戦後文学においても「人間性・主体性の回復」が叫ばれました。しかし(この)戦争そのものが、「人間の尊厳の名の下に」それを持たない存在を排除し殺害していくものだったとしたらどうなのでしょうか。「あいつらは人間ではない(動物と同じだ)」として暴力が横行する。そう考えて振り返ると、日本の戦後文学には動物の表象・声がいたるところに響いています。本書は特に武田泰淳、大江健三郎、小島信夫の作品を取り上げて、人間/動物の境界がいかに作られ、暴力の源となっているか、をたどり、クッツェー、アガンベン、デリダなども援用しつつ、「多様なものたちの共生」の道を探ろうとします。大型新人批評家の登場です。
      
動物の声、他者の声 目次
はじめに

序 章 なぜ動物なのか?
 1 本書の目的
 2 近年の動物に関する哲学的考察
 3 動物の表象に関する文学研究
 4 戦後という時代

 5 作家の選定
 6 本書の構成

第一部 武田泰淳――国家の戦争と動物

第一章 「審判」――「自覚」の特権性を問う
 1 『司馬遷』と『世界史の哲学』
 2 複数の声のフォーラム
 3 記録者の特権性と動物の主題
 4 「罪の自覚」というレトリック
 結論

第二章 『風媒花』――抵抗の複数性を求めて
 1 竹内好の国民文学論
 2 外部への架橋
 3 「混血」としての主体
 4 全知の語りへの抵抗
 結論

第三章 「ひかりごけ」――「限界状況」の仮構性
 1 人間としての倨傲
 2 人肉食をめぐって
 3 「ひかりごけ」の構造
 4 国家と法-外なもの
 結論

第二部 大江健三郎――動物を殺害する人間

第四章 「奇妙な仕事」――動物とファシズム
 1 先行批評の整理
 2 同時代状況から
 3 犬殺しの強制収容所
 4 アレゴリーから変身へ
 結論

第五章 「飼育」――言葉を奪われた動物
 1 動物小説としての「飼育」
 2 江藤淳の近代主義批評
 3 三島由紀夫の反近代主義批評
 4 「飼育」の新たな読みへ
 結論

第六章 「セヴンティーン」――ファシズムに抵抗する語り
 1 「セヴンティーン」の位置
 2 自意識の語りとねじれ
 3 人間・動物・獣
 4 《人間》の問い直しへ
 結論

第三部 小島信夫――家庭を攪乱する動物

第七章 「馬」――戦後家庭の失調
 1 初期小島作品の方法
 2 戦後の家庭機械
 3 馬と家庭の失調
 4 「馬」の政治性
結論

第八章 『墓碑銘』――軍事化の道程
 1 日本人になること
 2 軍隊と動物
 3 軍隊と家庭
 4 軍事化を攪乱する
 結論

第九章 『抱擁家族』――クィア・ファミリーの誘惑
 1 『成熟と喪失』の背景
 2 クィア・ファミリーの誘惑
 3 軍事化とその亀裂
 4 歓待と動物的他者
 結論

第四部 動物との共生へ

第十章 『富士』――狂気と動物
 1 動物と精神障害者
 2 「治療」というイデオロギー
 3 精神障害者のアイデンティティ闘争
 4 治療から分有へ
 結論

第十一章 『万延元年のフットボール』――傍らに寄り添う動物
 1 主体の解体の先で出会うもの
 2 鷹とネズミの構造的対立
 3 傷つきやすさと赦し
 4 沈黙の叫びを翻訳する
 結論

第十二章 『別れる理由』――馬になる小説
 1 代償行為としての姦通
 2 トロヤ戦争を解体する
 3 「馬」の再演
 結論

終 章 非対称的な倫理
 1 戦後文学と動物
 2 動物への暴力を乗り越えるために
 3 今後の展望



あとがき
事項索引
人名・作品索引
装幀─難波園子


 日本は、「大東亜戦争」と呼称した侵略戦争の帰結として、東アジアと太平洋地域に、かつてない規模の殺戮と破壊をもたらした。戦後を生きる人びとに、この事実は大きな思想課題となってのしかかった。欧米において、ナチスのホロコーストの衝撃が、学問や芸術に対して過去のままであることを許さなかったのと同様に、この戦争の記憶は、人びとに分有され、それぞれの領域で暴力への根底的な内省を促したのである。

 そのなかには、文学の創作を通じて、暴力の本質を問い、かつそれを克服するための倫理を見出そうと努めた者たちもいた。日本の文学史では、彼らの達成を「戦後文学」と呼んでいる。

 しかし、私たちは、戦後文学の倫理を正しく受け止められているだろうか。彼らの文学の固有性と正面から向き合う代わりに、なじみやすい倫理を外部から当てはめ、満足してしまっているということはないだろうか。

 ここで言う「なじみやすい倫理」とは、本書でしばしば批判的に検討する「人間性・主体性の回復」というスローガンのことである。確かに日本が遂行した戦争は、交戦国のみならず、自国の人びとからも、人間の尊厳や、自由な主体性を剥奪し、残酷な死へと追いやる性格のものだった。それゆえに、人間性や主体性の回復が戦後思想の重要な課題とみなされたことは事実である。しかし、実際に戦後文学を読むとき、それらが人間性や主体性の回復を志向していると断言するのには、ためらいを覚えずにはいられない。

 なぜならば、多くの戦後文学で描き出されているのは、人間の尊厳の名のもとに、それを持たないとみなされる存在を排除し、殺害していくような種類の暴力だからである。この排除と殺害の対象には、しばしば動物の表象が与えられる。実際、「あいつらは人間ではない(動物と同じだ)」という物言いが、どれほどの暴力を発揮するのかという例を、私たちは戦後文学のいたるところに発見できる。

 ここでは、人間と動物の概念のあいだで転倒が生じている。つまり、「人間」の尊厳を声高に叫ぶ者こそが、正視に耐えないような獣性を発揮し、「動物」として蔑視される弱者たちを容赦なく殺害していくのである。そうだとすれば、私たちにとって、「人間」とは何であり、「動物」とは何であるのか。まずは、この不分明な地帯にあえて立ち止まり、よく考えてみなければならないだろう。少なくとも、その答えが出るまで、人間性や主体性の回復といった出口に安易に飛びつくことはできないはずだ。

 この観点から戦後文学を再読すれば、人間性や主体性という理念が何らかの出口を指し示した事例はほとんど存在しないことに気づかされるだろう。逆に、それらの理念が新たな暴力や抑圧の原因となったり、傷ついた当事者の連帯を妨げたりする事例ならば、いくつも発見することができる。また、主人公が人間性や主体性を回復するのではなく、むしろ動物の境位にまで落とされたり、自ら下りて行ったりすることで、暴力を根底から問い直し、克服するための希望が見えてくるというプロットも、多くの戦後文学に共通して指摘できるのである。

 本書は、このように戦後文学が追究しつつも、十分に認知されずにいた、人間と動物の境界をめぐる倫理について考察しようとするものである。対象とするのは、武田泰淳、大江健三郎、小島信夫の作品である。この三名は、戦後文学史のなかでも、世代や主題に基づいて、別々の集団に区分されてきた。しかし、彼らの作品には、動物の問題への強い関心が共有されている。このことは、さまざまな差異を超えて、戦争という巨大な暴力が、戦後文学者に動物という存在への注目を促したことを示している。

 戦後文学には、私たちに呼びかける動物の声が響いている。そして、自分が、あるいは自分の大切な存在が、いつ動物とみなされ、抹殺することさえ望まれるかもしれないという恐怖が現実味を帯びてしまう社会、そのような恐怖を駆動力としつつ、破綻的な未来へと突き進むかのような社会では、戦後文学のなかの動物が呼びかける声は、より強く、切迫して、耳に届いてくるだろう。

 人間の人間に対する暴力の乗り越えを希求する者にとって、戦後文学は今もなお汲み尽くせない源泉として存在している。