4.16.2018

第93回

ご無沙汰しております。
新年度も始まりましたが、皆さまご壮健でご活躍のこととお喜び申し上げます。さて、また少し間が空いてしまいましたが、5月よりきむすぽを再開できればと思います。 
今回は、金ヨンロンさんの待望のご単著『小説と〈歴史的時間〉――井伏鱒二・中野重治・小林多喜二・太宰治』(世織書房)が刊行されましたので、こちらの書評会を開催したいと思います。
皆さまどうぞふるってご参加ください。

***

第93回 叙述態研

日時:5月11日(金)18時30分から
★今回は開始時間が30分遅くなっていますのでご注意ください。

場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟301号室

【著者セッション】 
金ヨンロン『小説と〈歴史的時間〉――井伏鱒二・中野重治・小林多喜二・太宰治』(世織書房、2018年2月)

コメンテーター:金子明雄(立教大学文学部教授)

◆『小説と〈歴史的時間〉』紹介(世織書房HPより)
小説の批評性は「小説に何が描かれていないのか」にある。
四人の作者――井伏鱒二×中野重治×小林多喜二×太宰治――を列する居心地の悪さに 近代文学研究という制度の枠、その政治性を気鋭の研究者が問い直す。


序 章
小説、時間、歴史


〈歴史的時間〉を召喚する〈循環的時間〉

第1章
小説が書き直される間井伏鱒二「幽閉」(1923)から「山椒魚」(1930)への改稿問題を中心に

第2章
「私」を拘束する時間井伏鱒二「谷間」(1929)を中心に

第3章
持続可能な抵抗が模索される時間小林多喜二「蟹工船」(1929)と井伏鱒二「炭鉱地帯病院――その訪問記」(1929)を中心に

第4章
アレゴリーを読む時間井伏鱒二「洪水前後」(1932)を中心に


小説の空所と〈歴史的時間〉

第5章
××
を書く、読む時間小林多喜二『党生活者』(1933

第6章
小説の書けぬ時間中野重治「小説の書けぬ小説家」(1936)を中心に

第7章
疑惑を生み出す再読の時間太宰治『新ハムレツト』(1941)論

第8章
占領地を流れる時間井伏鱒二「花の町」(1942)を中心に


〈断絶的時間〉に対抗する〈連続的時間〉

第9章
〈断絶〉と〈連続〉のせめぎ合い太宰治『パンドラの匣』(19451946)論

10
語ることが「嘘」になる時間太宰治「嘘」(1946)論

11
いま、「少しもわからない」小説太宰治「女神」(1947)を中心に

12
革命の可能性が問われる時間太宰治『冬の花火』(1946)から『斜陽』(1947)へ

終 章
〈歴史的時間〉の獲得としての読書

11.17.2017

第92回

***
第92回 叙述態研
日時:12月1日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター 教室未定(※決定次第お知らせします)

【著者セッション】
村上克尚『動物の声、他者の声――日本戦後文学の倫理』(新曜社、2017年9月)
コメンテーター:友常勉(東京外国語大学国際日本学研究院教授)

今回は古参メンバーの村上克尚さんの待望の単著、
動物の声、他者の声』(新曜社)の書評企画です!
同書の刊行は、戦後文学研究にとって決定的な一歩です。
どうぞふるってご参加ください。

◆「動物」とは何か、戦後文学の「倫理」を問う(新曜社HPより) 七〇年前の「大東亜」を呼号した戦争は自国はもとより東アジアと太平洋地域に多大の殺戮・破壊をもたらしました。その反省から戦後文学においても「人間性・主体性の回復」が叫ばれました。しかし(この)戦争そのものが、「人間の尊厳の名の下に」それを持たない存在を排除し殺害していくものだったとしたらどうなのでしょうか。「あいつらは人間ではない(動物と同じだ)」として暴力が横行する。そう考えて振り返ると、日本の戦後文学には動物の表象・声がいたるところに響いています。本書は特に武田泰淳、大江健三郎、小島信夫の作品を取り上げて、人間/動物の境界がいかに作られ、暴力の源となっているか、をたどり、クッツェー、アガンベン、デリダなども援用しつつ、「多様なものたちの共生」の道を探ろうとします。大型新人批評家の登場です。
      
動物の声、他者の声 目次
はじめに

序 章 なぜ動物なのか?
 1 本書の目的
 2 近年の動物に関する哲学的考察
 3 動物の表象に関する文学研究
 4 戦後という時代

 5 作家の選定
 6 本書の構成

第一部 武田泰淳――国家の戦争と動物

第一章 「審判」――「自覚」の特権性を問う
 1 『司馬遷』と『世界史の哲学』
 2 複数の声のフォーラム
 3 記録者の特権性と動物の主題
 4 「罪の自覚」というレトリック
 結論

第二章 『風媒花』――抵抗の複数性を求めて
 1 竹内好の国民文学論
 2 外部への架橋
 3 「混血」としての主体
 4 全知の語りへの抵抗
 結論

第三章 「ひかりごけ」――「限界状況」の仮構性
 1 人間としての倨傲
 2 人肉食をめぐって
 3 「ひかりごけ」の構造
 4 国家と法-外なもの
 結論

第二部 大江健三郎――動物を殺害する人間

第四章 「奇妙な仕事」――動物とファシズム
 1 先行批評の整理
 2 同時代状況から
 3 犬殺しの強制収容所
 4 アレゴリーから変身へ
 結論

第五章 「飼育」――言葉を奪われた動物
 1 動物小説としての「飼育」
 2 江藤淳の近代主義批評
 3 三島由紀夫の反近代主義批評
 4 「飼育」の新たな読みへ
 結論

第六章 「セヴンティーン」――ファシズムに抵抗する語り
 1 「セヴンティーン」の位置
 2 自意識の語りとねじれ
 3 人間・動物・獣
 4 《人間》の問い直しへ
 結論

第三部 小島信夫――家庭を攪乱する動物

第七章 「馬」――戦後家庭の失調
 1 初期小島作品の方法
 2 戦後の家庭機械
 3 馬と家庭の失調
 4 「馬」の政治性
結論

第八章 『墓碑銘』――軍事化の道程
 1 日本人になること
 2 軍隊と動物
 3 軍隊と家庭
 4 軍事化を攪乱する
 結論

第九章 『抱擁家族』――クィア・ファミリーの誘惑
 1 『成熟と喪失』の背景
 2 クィア・ファミリーの誘惑
 3 軍事化とその亀裂
 4 歓待と動物的他者
 結論

第四部 動物との共生へ

第十章 『富士』――狂気と動物
 1 動物と精神障害者
 2 「治療」というイデオロギー
 3 精神障害者のアイデンティティ闘争
 4 治療から分有へ
 結論

第十一章 『万延元年のフットボール』――傍らに寄り添う動物
 1 主体の解体の先で出会うもの
 2 鷹とネズミの構造的対立
 3 傷つきやすさと赦し
 4 沈黙の叫びを翻訳する
 結論

第十二章 『別れる理由』――馬になる小説
 1 代償行為としての姦通
 2 トロヤ戦争を解体する
 3 「馬」の再演
 結論

終 章 非対称的な倫理
 1 戦後文学と動物
 2 動物への暴力を乗り越えるために
 3 今後の展望



あとがき
事項索引
人名・作品索引
装幀─難波園子


 日本は、「大東亜戦争」と呼称した侵略戦争の帰結として、東アジアと太平洋地域に、かつてない規模の殺戮と破壊をもたらした。戦後を生きる人びとに、この事実は大きな思想課題となってのしかかった。欧米において、ナチスのホロコーストの衝撃が、学問や芸術に対して過去のままであることを許さなかったのと同様に、この戦争の記憶は、人びとに分有され、それぞれの領域で暴力への根底的な内省を促したのである。

 そのなかには、文学の創作を通じて、暴力の本質を問い、かつそれを克服するための倫理を見出そうと努めた者たちもいた。日本の文学史では、彼らの達成を「戦後文学」と呼んでいる。

 しかし、私たちは、戦後文学の倫理を正しく受け止められているだろうか。彼らの文学の固有性と正面から向き合う代わりに、なじみやすい倫理を外部から当てはめ、満足してしまっているということはないだろうか。

 ここで言う「なじみやすい倫理」とは、本書でしばしば批判的に検討する「人間性・主体性の回復」というスローガンのことである。確かに日本が遂行した戦争は、交戦国のみならず、自国の人びとからも、人間の尊厳や、自由な主体性を剥奪し、残酷な死へと追いやる性格のものだった。それゆえに、人間性や主体性の回復が戦後思想の重要な課題とみなされたことは事実である。しかし、実際に戦後文学を読むとき、それらが人間性や主体性の回復を志向していると断言するのには、ためらいを覚えずにはいられない。

 なぜならば、多くの戦後文学で描き出されているのは、人間の尊厳の名のもとに、それを持たないとみなされる存在を排除し、殺害していくような種類の暴力だからである。この排除と殺害の対象には、しばしば動物の表象が与えられる。実際、「あいつらは人間ではない(動物と同じだ)」という物言いが、どれほどの暴力を発揮するのかという例を、私たちは戦後文学のいたるところに発見できる。

 ここでは、人間と動物の概念のあいだで転倒が生じている。つまり、「人間」の尊厳を声高に叫ぶ者こそが、正視に耐えないような獣性を発揮し、「動物」として蔑視される弱者たちを容赦なく殺害していくのである。そうだとすれば、私たちにとって、「人間」とは何であり、「動物」とは何であるのか。まずは、この不分明な地帯にあえて立ち止まり、よく考えてみなければならないだろう。少なくとも、その答えが出るまで、人間性や主体性の回復といった出口に安易に飛びつくことはできないはずだ。

 この観点から戦後文学を再読すれば、人間性や主体性という理念が何らかの出口を指し示した事例はほとんど存在しないことに気づかされるだろう。逆に、それらの理念が新たな暴力や抑圧の原因となったり、傷ついた当事者の連帯を妨げたりする事例ならば、いくつも発見することができる。また、主人公が人間性や主体性を回復するのではなく、むしろ動物の境位にまで落とされたり、自ら下りて行ったりすることで、暴力を根底から問い直し、克服するための希望が見えてくるというプロットも、多くの戦後文学に共通して指摘できるのである。

 本書は、このように戦後文学が追究しつつも、十分に認知されずにいた、人間と動物の境界をめぐる倫理について考察しようとするものである。対象とするのは、武田泰淳、大江健三郎、小島信夫の作品である。この三名は、戦後文学史のなかでも、世代や主題に基づいて、別々の集団に区分されてきた。しかし、彼らの作品には、動物の問題への強い関心が共有されている。このことは、さまざまな差異を超えて、戦争という巨大な暴力が、戦後文学者に動物という存在への注目を促したことを示している。

 戦後文学には、私たちに呼びかける動物の声が響いている。そして、自分が、あるいは自分の大切な存在が、いつ動物とみなされ、抹殺することさえ望まれるかもしれないという恐怖が現実味を帯びてしまう社会、そのような恐怖を駆動力としつつ、破綻的な未来へと突き進むかのような社会では、戦後文学のなかの動物が呼びかける声は、より強く、切迫して、耳に届いてくるだろう。

 人間の人間に対する暴力の乗り越えを希求する者にとって、戦後文学は今もなお汲み尽くせない源泉として存在している。

7.28.2017

第91回(15時30分開始です)


叙述態研(きむすぽ)の皆さま

 

すっかりご無沙汰しております。皆さまもお変わりないことと存じます。

 

さて、昨年12月の会からまた間が空いてしまいましたが、来る84日(金)に2017年度最初のきむすぽを開催できる運びとなりました。

今回は特別企画となり、ポスターでは「国際研究集会」というやや固い名称になっていますが、ぜひ普段どおり気軽にご参加いただければと思います。

またご関心がありそうなお知り合いなどいらっしゃいましたら、ぜひお誘いあわせの上、お越しください。

 


 

91回 叙述態研

日時:84日(金)1530分から

場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟510

 

【個人発表】

ジャック・ウィルソン 「不安の系譜:戦後歴史学と戦後詩の立場から」

田口 麻奈 「鮎川信夫「橋上の人」と近代主義の帰趨」

フラボスキ-・ドーラ 「比較文学的視点から見た戦後詩:ハンガリーにおける「荒地」研究の意義について」

ゲストコメンテーター:樋口良澄
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【発表要旨】
ジャック・ウィルソン「不安の系譜:戦後歴史学と戦後詩からの立場」

この発表は荒地という戦後詩人のグループと謂わゆる歴史意識の問題に取り組む。特に、鮎川信夫 (1920-1986)が戦後時代に出版した「荒地における主題」や「現代詩とは何か」や「灰燼の中から」などの評論を読み、荒地派の戦争ファシズムと戦後コミュニズムへの反対というスローガンと知識人の戦争体験に繋げる。荒地派と知識人の歴史を分析することで、死や時間性などのテーマと世界的な全体主義の批判との関係を強調する。その 立場から、荒地派を日本敗戦の喪失者として解釈するだけではなく、第一次大戦から第二次大戦後に亘る世界近代性に対するユニークな批評家として把握する 。


田口麻奈「鮎川信夫『橋上の人』と近代主義の帰趨」
 
鮎川信夫の代表作「橋上の人」(19431951)は、戦中から戦後にかけて幾度も改稿を重ねて書き継がれた詩篇であり、これまで、終戦を挟んだ鮎川の心境の変化を軸に読まれてきた。本発表では、詩篇が包含している同時代的な課題を読み取ることを主眼とし、最終稿となった第三作目(1951)を中心に考察する。当時の重要な潮流の一つであるTS
エリオットブーム、それをふまえた詩劇の流行を考え合わせることで、本作における多声性の試みを具体的に検証したい。また、本作には鮎川による都市論としての性格が認められ、大きくは近代日本の都市計画に対する批評性を読み取ることができると考えている。1950年代に多くの批評家が示した近代主義批判の動向にも議論を広げつつ、日本戦後詩における近代主義の帰趨について考える端緒としたい。
 
 
フラボスキー・ドーラ「比較文学的視点から見た戦後詩:ハンガリーにおける「荒地」研究の意義について」
 戦争が終わったあとの数年間は、詩の世界においても混乱の時期だった。西洋の文学作品でもこれは同じで戦後の混乱が強く感じられていると言われている。それまで文学的だと言われた言葉は戦争体験を表現するのには不十分であり、審美的にも有効ではないという考え方が広がっていた。一方、敗戦によりその戦争協力の反省に基づき日本の「戦後詩」が始まった。また一方、ハンガリーはハンガリー人民共和国として1949年から1989年までの社会主義政権時代に入った。ソビエト連邦の影響下に置かれた国となっており、それから「ハンガリー戦後詩」のような存在であった作品が禁じられた。戦前の詩の流れが戦後どのように受け継がれていたのかについて比較文学的視点から考えてみたいと思う。「荒地」グループの詩人による運動、そしてその作品を,戦後のハンガリー詩と比較しながら、日本の戦後詩の文学史的特徴を明らかにしようと思っている。
 
 

 

11.15.2016

第90回

すっかりご無沙汰しておりますが、皆さまお元気でお過ごしでしょうか?

さて、運営の側の環境の変化で長らくお休みを頂いておりました研究会ですが、12月より再開できる運びとなりました。
詳細は以下の通りです。

なお、研究会終了後には忘年会を企画しております。
ご都合に応じまして、忘年会よりのご参加でも歓迎いたします。
皆さま、どうぞふるってご参加ください。
構造主義のかなたへ-『源氏物語』追跡-藤井-貞和



第90回 叙述態研
日時:12月2日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟303
【個人発表】
野上亮:「ある地方文学者の実践と挫折ーー岩下俊作『富島松五郎伝』と直木賞」
【著者セッション】
藤井貞和:『構造主義のかなたへーー『源氏物語』追跡』笠間書院、2016年7月

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【個人発表要旨】
 本報告は,岩下俊作『富島松五郎伝』とその作品をめぐる直木賞選考に焦点を当て,労働者出身の地方文学者,岩下俊作が試みた小説における文学実践および,それが巻き起こしたインパクトについて述べることを目的とする。
 岩下俊作は,小倉工業学校在学中から詩作を中心とした文学活動に傾倒し,劉寒吉らとともに詩誌『とらんしっと』を発刊する。そこで,目指されたのは,生活や労働に根差したリアリズムである,「汎力動詩」であった。やがて,小説創作を志した岩下は,ある一篇の小説を書きあげる。それが『富島松五郎伝』である。昭和10年代,読み物と言えば,エリートを対象とする純文学作品か,通俗小説,あるいは『キング』にみられる教化色の強い文章であったが,『富島松五郎伝』はそれらとは一線を画した,これまでにないタイプの小説であった。岩下本人は,自らの文学を「純文学」と定義していたが,『富島松五郎伝』は,「大衆文学」として中央文壇での注目を集め,直木賞の最終選考に残る。そこでは,『富島松五郎伝』が,面白い芸術小説か,芸術的な大衆小説か,という議論が巻き起こった。議論の末,受賞を逃した岩下だったが,『富島松五郎伝』は『無法松の一生』として映画化され,国民的映画の原作者として記憶されるようになる。しかし,岩下は『無法松』のイメージの独り歩きを終生苦々しく思う。
 本報告は,岩下の社会的軌道や作品の内容,当時の文学状況を照らし合わせながら,戦時下において,この地方文学者が引き起こした文学的インパクトについて説明する。

【著者セッション・内容紹介】
〈構造主義とは何か〉、時代や歴史のなかで
物語が産まれ、読まれる理由を問い下ろし、
〈構造主義〉以後の世代に手わたしたいと思う──

【本書の読み方について、一つの提案をしよう。
これは『源氏物語』をあいてにして、ぜんたいを小説となす
試みなのだ、と。─いや、『源氏物語』という物語じたいが、
そんな書き方をされているのではないか。】
......[はしがき]より

【......『構造主義のかなたへ』という本書の題はどう受け取られるのだろうか。もう古めかしいという感触に包まれてよいし、反対に「方法に時効はない」という確信があってもよい。私は言語学的にも、また思想的にも、構造主義と格闘したのだと思う。一九六〇年代から七〇年代にかけての、日本社会でのある種の空白期、停滞期に、世界の中心の発光源のようにしてフランス語圏から、構造主義およびその周辺の〝便り〟が暴力的に訪れて、パリ・カルチェラタンのバリケードはあたかもアルチュール・ランボオを襲ったパリ・コムミューンの再来のようにも思えてならなかった。なんと幼い日々の自分であったことか。
そこからかぞえても四十年以上という計算になる。】
......「キーワード集―後ろ書きに代えて」より

11.28.2015

第89回


叙述態研(きむすぽ)の皆さま

 

冬がもうそこまで近づいて来ました。皆さまいかがお過ごしでしょうか。

 

さて、今年最後のきむすぽのご連絡を差し上げます。

研究会終了後には忘年会を企画しております。

ご都合に応じまして、忘年会よりのご参加でも歓迎いたします。

(ただし、その際には前もってご連絡をお願いいたします。)

それでは、皆さま、どうぞふるってご参加ください。

 

第89回 叙述態研

日時:12月4日(金)18時から

場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟301

【個人発表】

小長井涼:「短歌のリアリズム――昭和10年前後の〈現実〉をめぐる議論から」

コメンテーター:島村輝

 

 ***

 【発表要旨】

 昭和10年前後の歌壇において〈現実〉というタームをめぐる議論が繰り広げられていた。当時の歌壇では、時代状況・社会状況を認識しなければならないとする呼号のもとに時事詠を積極的に詠もうとしており、このなかで、土屋文明の破調歌に代表される〈短歌の散文化〉が起きる。この現象について、その淵源をプロレタリア短歌に求める指摘が同時代評のなかでなされている。

 そもそも昭和初期の新興短歌運動は、大熊信行や大塚金之助などといった経済学を学んだプロレタリア歌人によって起こされたものだった。経済学は社会分析のツールであるから、彼らプロレタリア歌人も社会のリアルな実相を短歌に詠みこもうとした。こうした新興短歌運動が上述のの時事詠の流行に影響を与えた可能性はある。

 しかしながら、昭和10年前後にあって〈現実〉なるタームは多様に解釈されていた。〈詩への解消〉から再出発したプロレタリア歌人らは、プロレタリア・リアリズムを詠うのではなく、〈現実〉を抒情することに方向転換した。こうしてプロレタリア短歌はややもすれば「哀憐趣味」(太田水穂)に走り、社会をリアルに認識しようとした当初の姿勢から乖離していく。同時期、国家精神・民族精神のもとに〈現実〉を認識しろだとか、浪漫主義的に〈現実〉を詠えだとかの歌論が百家争鳴的に現れ、もはや〈現実〉の統一的定義づけが困難とも思える状態になる。本報告においては、〈現実〉を詠えと叫んだ短歌がいかにして〈現実〉性を失っていき、しだいに翼賛化していくのか、その道筋を当時の歌論のなかから探っていきたいと思う。

 

第88回


叙述態研(きむすぽ)の皆さま

 

 

 

気候不順の折、各地で心配なニュースもございますが、皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか。

 

10月きむすぽの案内を差し上げます。

 

どうぞふるってご参集ください。

 

 

日時:10月2日(金)18時から

場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟【教室番号は追ってご連絡いたします】

【著者セッション】

松山典正『「源氏物語」アイロニー詩学』(笠間書院、20153月)

コメンテーター:布村浩一

 

 

【内容紹介(笠間書院HPより)】

玉鬘と源氏、二人の関係を「アイロニー」という概念をふまえて先行研究を読みかえる。

 『源氏物語』へ理論を当てはめるのではなく、更新の手段として物語と理論との往還が必要とされる。そのため、「源氏物語から」理論そのものをとらえ直す試みとして本書はある。

 

 本書は、玉鬘の姫君が六条院世界を自らの論理によってどのように相対化し、かつ能動的な物語として生きるのかに焦点を当てる。第一章では成立論を参照し、玉鬘を中心とした物語の読みについて確認する。また、玉鬘の六条院入りに焦点を当て、女君の側から物語をとらえ直す。第二章では、右近や花散里といった端役に注目し、玉鬘との関係において物語にどのような影響をもたらすのかを考察する。第三章では、玉鬘十帖の語り手に着目し、叙述構造の位相において物語がどのように描かれるのかを考える。

 

「成立過程論は、主題論へと発展して後の読解へ大きな影響を与えたが、今日、あまり顧みられない。玉鬘十帖という一群や、それに含まれる各巻について考察しようとすると、玉鬘系と呼ばれる巻々を意識しないわけにゆかない。本書は玉鬘十帖の研究史を見直すために、『源氏物語』における一九四〇年代から五〇年代初頭に書かれた成立過程論を追う所から始まる。

 玉鬘系の指標人物である、玉鬘の女君は、「真木柱」巻で髭黒の大将との婚姻関係が明らかにされたあと、「若菜」上・下巻以下の物語に登場する。「若菜」上・下巻、「柏木」、「紅梅」、「竹河」、「宿木」巻を、玉鬘系の巻々と見なしてよいのではないか。そのような新しい視野が用意されつつある今日であり、玉鬘の女君をめぐる物語の行方を追尋する上で、第二部以後の成立過程問題と無関係でありえない。今後の課題は大きくかつ広い。」…「あとがき」より

 

【著者紹介】松山 典正

1980年、静岡県浜松市生まれ。立正大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程修了。博士(文学)。現在、立正大学文学部助教。専攻、平安文学。

 

8.23.2015

第87回


叙述態研(きむすぽ)の皆さま

 

厳しい残暑が続きますが、お変わりなくお過ごしでしょうか。

 

9月きむすぽの案内を差し上げます。

どうぞふるってご参集ください。

 

日時:94日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟408教室

【著者セッション】

村上陽子『出来事の残響―原爆文学と沖縄文学』(インパクト出版会、20157月)

コメンテーター:平井裕香、戸邉秀明

司会:岩川ありさ

 

【企画趣旨】(岩川ありさ)

今回のきむすぽでは、『出来事の残響―原爆文学と沖縄文学』(インパクト出版会、2015)の著者である村上陽子さんを迎えて書評セッションを行う。村上さんは、本書で、「原爆文学」と「沖縄文学」という二つの領域と対峙し、その歴史的・文化的な差異を見つめながら、言葉にできないほど衝撃的な出来事を生き延びた書き手によって書かれたテクストを詳細に読み解いている。広島での被爆体験を描いた大田洋子「ほたる―「H市歴訪」のうち」(一九五三年)、「半人間」(一九五四年)、占領下の沖縄を描いた長堂英吉「黒人街」(一九六六年)、大城立裕「カクテル・パーティ」(一九六七年)、復帰翌年の沖縄を描いた嶋津与志「骨」(一九七三年)、そして、長崎での被爆体験を描き続けている林京子「祭りの場」(一九七五年)、『ギヤマン・ビードロ』(一九七八年)。本書で扱われるテクストは多岐にわたっており、著者である村上さんは、意味づけられないまま残る「残響」を聴きとろうとする。

 

破壊的な出来事の底には、証言の主体となることができない多くの存在が沈んでいる。その存在が発する呻きや泣き声、叫び、骨がこすれ合って生じるかすかな音――それらの響きはいまにも消えていこうとしながら、それでもなお空気を震わせている。留め置かれる響きの中で、語ることのできない存在はいまなお生き延びているのではないか。本書では、その響きを出来事の残響と捉えた。(本書七頁)

 

本書の冒頭のこの文章でも示されるとおり、本書は、今にも消えてしまいそうな響きへと耳を澄まし、他者から呼びかけられた瞬間にはじまる文学テクスト分析の実践を行った稀有な一冊である。しかし、それだけでなく、本書には特筆すべきことがもうひとつある。最終章を読むと、二〇一一年三月一一日の東日本大震災と原子力発電所での事故のただなかにいながら、原爆や原発と真正面から向かいあってきた文学を読み直すことの意義について書かれており、核と占領の時代において、どのようにして傷や痛みと向かいあえばよいのかをも本書は問うている。自らが体験したのではない記憶をどのように受けとればいいのか。村上さんは、又吉栄喜「ギンネム屋敷」(一九八〇年)、目取真俊「風音」(一九八五年初出、その後加筆修正され一九九七年に『水滴』に収録)、「水滴」(一九九七年)といった、戦後生まれの作家による小説をとりあげて、あふれだすような他者の記憶に触れてしまい、「共振」する瞬間がテクストに現れる瞬間を明らかにする。村上さんの言葉でいうと、「一つの出来事への直面が、別の出来事に対して扉を開くことがある」(本書二七七頁)のだ。本書評セッションには、「原爆文学」と「沖縄文学」に興味のある方はもちろんのこと、現在の暴力的な出来事に抗いながら、文学の言葉を信じる方にご参加いただければと願っている。

 

著者紹介

 

村上陽子(むらかみ・ようこ)
1981年、広島県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。現在、成蹊大学アジア太平洋研究センター特別研究員および大学非常勤講師。専攻は沖縄・日本近現代文学