9.03.2013

第73回


まだまだ暑い日が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
さて、9月きむすぽのお知らせをお送りいたします。
今回も参加しやすい18時開始となっております。
ぜひ皆さまお誘い合わせの上、ご参加ください。

73回叙述態研
日時:96日(金)18時から
場所:国立オリンピック記念青少年総合センター、センター棟414教室
http://nyc.niye.go.jp/facilities/d7.html
【個人発表】
村上克尚「戦後家庭の失調――小島信夫「馬」の政治性について」
村上陽子「又吉栄喜「ギンネム屋敷」試論」

***
【発表要旨】

村上克尚「戦後家庭の失調――小島信夫「馬」の政治性について」

小島信夫は、五〇年代半ばに家庭の問題への関心を表わし、「第三の新人」という範疇に分類されてきた。しかし、小島の家庭への関心は、政治的な領域からの撤退を示すのではなく、むしろ家庭の領域と政治の領域との不可分性の意識に支えられている。「馬」(当初は「家」と「馬」として発表、共に一九五四・八)という奇妙な家庭小説は、戦後に民主化されたと言われる家庭が、実際には男性を社会に奉仕させる一方、女性を家に囲い込むという仕方で、なお「主人」の論理を保存していることを示す。この「主人」の論理は、同時代の国家の「主権」をめぐる軍事的な論理とも共犯関係にある。登場人物の「僕」もトキ子も、このような「主人」=「主権」の論理に違和感を持っているが、家庭は親密な愛
情の場でなければならないという思い込みから、この論理に従属している。しかし、愛情の証として始められた家の増築は、まるで二人の潜在的な欲望を反映するかのように、馬という異質な他者を呼び込んでしまう。この馬は、「主人」の威容を支えるための「動物」であったにもかかわらず、そのような機能に還元されない単独的な生を生きることで、「僕」とトキ子の家庭を次第に失調させていく。馬に敗北する「僕」の姿は、異質な他者を排斥する「主人」の論理から、異質な他者を迎え入れる歓待の論理への移行を象徴しているように思える。そして、もしこのような読みが可能なのだとしたら、小島の小説に、父=治者にならねばならないという倫理を読み取ろうとする江藤淳の『成熟と喪失』が提示し
たパラダイムは大きく修正されねばならないだろう。

*************
村上陽子「又吉栄喜「ギンネム屋敷」試論」

 一九五三年の沖縄を舞台とする又吉栄喜「ギンネム屋敷」(一九八〇年)は、沖縄戦の中での朝鮮人軍夫や「従軍慰安婦」を描いた希有な作品である。沖縄人、朝鮮人、米軍人、二世兵士など、さまざまな立場の人間が交錯するこの作品は、第四回すばる文学賞を受賞したものの、わかりにくいという批判を受けた。そのわかりにくさは沖縄という土地において朝鮮人をめぐる記憶が正当に聞き取られ、記憶されることの不可能性と強く結び付いていると言える。

物語の枠を揺るがし、こぼれ落ちる声や記憶を「ギンネム屋敷」はどのように描こうとしているのか。本報告では、抑圧され、忘却されてきた〈他者〉としての朝鮮人の記憶が召還され、語られる過程において、新たに発動されてしまう暴力や聞き捨てられていく声について考えていきたい。

村上陽子(東京大学大学院)