11.28.2015

第89回


叙述態研(きむすぽ)の皆さま

 

冬がもうそこまで近づいて来ました。皆さまいかがお過ごしでしょうか。

 

さて、今年最後のきむすぽのご連絡を差し上げます。

研究会終了後には忘年会を企画しております。

ご都合に応じまして、忘年会よりのご参加でも歓迎いたします。

(ただし、その際には前もってご連絡をお願いいたします。)

それでは、皆さま、どうぞふるってご参加ください。

 

第89回 叙述態研

日時:12月4日(金)18時から

場所:国立オリンピック記念青少年総合センター センター棟301

【個人発表】

小長井涼:「短歌のリアリズム――昭和10年前後の〈現実〉をめぐる議論から」

コメンテーター:島村輝

 

 ***

 【発表要旨】

 昭和10年前後の歌壇において〈現実〉というタームをめぐる議論が繰り広げられていた。当時の歌壇では、時代状況・社会状況を認識しなければならないとする呼号のもとに時事詠を積極的に詠もうとしており、このなかで、土屋文明の破調歌に代表される〈短歌の散文化〉が起きる。この現象について、その淵源をプロレタリア短歌に求める指摘が同時代評のなかでなされている。

 そもそも昭和初期の新興短歌運動は、大熊信行や大塚金之助などといった経済学を学んだプロレタリア歌人によって起こされたものだった。経済学は社会分析のツールであるから、彼らプロレタリア歌人も社会のリアルな実相を短歌に詠みこもうとした。こうした新興短歌運動が上述のの時事詠の流行に影響を与えた可能性はある。

 しかしながら、昭和10年前後にあって〈現実〉なるタームは多様に解釈されていた。〈詩への解消〉から再出発したプロレタリア歌人らは、プロレタリア・リアリズムを詠うのではなく、〈現実〉を抒情することに方向転換した。こうしてプロレタリア短歌はややもすれば「哀憐趣味」(太田水穂)に走り、社会をリアルに認識しようとした当初の姿勢から乖離していく。同時期、国家精神・民族精神のもとに〈現実〉を認識しろだとか、浪漫主義的に〈現実〉を詠えだとかの歌論が百家争鳴的に現れ、もはや〈現実〉の統一的定義づけが困難とも思える状態になる。本報告においては、〈現実〉を詠えと叫んだ短歌がいかにして〈現実〉性を失っていき、しだいに翼賛化していくのか、その道筋を当時の歌論のなかから探っていきたいと思う。

 

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